松代大本営(舞鶴山地下壕)

長野市松代町西条3511

 

松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅将校らは東京都八王子市に造営することを考えたが、上層部は様々な理由から信州・松代を選定して工事を開始した。

 

沖縄戦の敗戦で本土決戦が現実味を帯びると、「国体護持の砦」を具現化する計画が加算され、当初の計画から規模はどんどん膨んでいった。

 

具体的には陸軍省から通信関連の諸施設の地下壕、天皇の動座も含めた地上&地下行在所および宮内省建設、大本営地下壕改築を含むもので第2期工事として行われた。さらに同年7月には国体護持の拠点(賢所:天皇の正当性を示す宮中の賢所の神鏡を祀る所)の工事、皇太子・皇后・皇族壕(チ号倉庫)の工事が開始された。

 

昭和20年6月時点では、天皇および宮廷側近は松代大本営への動座は否定的で皇居籠城の発想だった(藤田侍従長の回顧録)。だがますます戦況が悪化しソ連を仲介とした停戦も頓挫。7月末頃には国体護持の観点から松代への動座を真剣に考えたようだ。

 

陸軍省の動きから、現場は8月初旬に「8月15日までに大本営移転と天皇の動座が決行」と予想して準備にとりかかったが、その後、陸軍省からは「各省庁高官との打ち合わせの中止」のみ連絡があっただけ。数日もたたないうちにポツダム宣言受諾の報(終戦)が入り、松代大本営は大半が未完のまま工事終了。

松代大本営は連合軍からの空襲から守る防空壕であり、本土決戦の作戦司令部であり、国体護持(天皇制の維持)のための砦であり、事実上の遷都先だった。

 

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.63、に加筆

 

*

舞鶴山地下壕

 

 

大本営

鶴舞山の掘削工事(ロ号倉庫)は第1期、象山地下壕よりも1ヶ月ほど早い昭和19年10月4日「マ(10.4)工事」が開始された。終戦時の出来高は90%

 

舞鶴山は極めて堅い玢岩でできており、採掘は困難を極めたようだ。坑道は総延長2.6kmで幅4m×高さ2.7mの地下壕5本から成る。舞鶴山の地質は大変硬かったようだ。ここは元々、大本営の作戦室として計画されていたため、地下壕は厚さ1mのコンクリートで補強されていた。

 

昭和20年7月、第2期工事「マ(3.23)工事」として、天皇行在所(1号舎)と皇后行在所(2号舎)、両陛下専用の地下壕(3号舎)を追加発注する際、大本営の大坑道も一部改築され、事務室・会議室がつくられた。

 

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.138、抜粋

 

大本営の大坑道入口

 

 

 

 

ここまでしか見られず(*_*)

 

大坑道には地震計、地殻変動観測機器が設置されている。

 

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.15

 

 

*

行在所(御座所)

 

舞鶴山南麓、四方を山に囲まれた小盆地状の地につくられたのが、天皇・皇后の行在所と宮内省。山腹をL字に削り、半地下に鉄筋コンクリート製の強固な造りの建屋をはめ込んだ。

 

当初の計画では皆神山を想定して掘削したが、岩盤が脆く断念した。舞鶴山の行在所は第2期工事「マ(3.23)工事」であったが、終戦時の出来高はおよそ90%だった。

 

工事打ち切り〜昭和22年5月まで無人だった間、3つの庁舎の内部に貼られた多くの木材などは盗まれた。

 

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.145

 

鉄筋コンクリート製の建屋。露出している南側の壁は厚さ40cm、屋根の厚さは80〜100cmで盛り土でカモフラージュする。

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.139、抜粋

 

(右から)

1号舎:天皇御座所関係施設

2号舎:皇后関係施設

5号舎:宮内省関係施設。

往時の姿のままではなく、戦後に増築している。

出典:松代地震観測所

 

昭和20年1月、決号作戦(本土決戦)を行うことが決まると、本土決戦の指揮を執るための中枢機能の整備、天皇の動座に伴う施設などが必要になった。当初予定していた皆神山の坑道は、掘削したものの地盤が軟弱で使えないことが判明した(のちに備蓄倉庫に転用)。

 

大本営(中枢部)が入る予定の舞鶴山(ロ号)の地下壕(=大坑道)の南に

大本営の事務室と大会議室

行在所(いわゆる仮御所)

小坑道と内部木造施設(地下行在所=地下壕)

宮内省

を別途新造することになった。

 

昭和20年7月、松代大本営の第2期工事「マ(3.23)工事」が開始された。第2期の請負会社は鹿島組。陸軍の2つの部隊約500人、朝鮮人180名、地元民間人が施工した。

1号舎:天皇行在所(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高95%

2号舎:皇后行在所(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高90%

3号舎:天皇・皇后用地下壕、出来高85%

4号舎:仮在所(木造平屋)、出来高100%

昭和20年4月が納期。緊急事態に備えてのもの

 

5号舎:宮内庁(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高85%

6号舎:大本営事務室・会議室(地下)、出来高不明

用途不明:(木造平屋)、出来高60%

厨房:(木造平屋)、出来高100%

ポンプ舎:(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高80%

階段舎:(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高50%

連絡舎:(木造・地下)、出来高80%

貯水池:出来高50%

 

*

1号舎

天皇行在所(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高95%

 

1945年12月頃の写真に比べると、左に増築されている

 

往時の1号舎と2号舎

山を削り、半地下状態だ。

 

窓越しに内部=天皇陛下の御座所がみられる(・∀・)

 

床の間がある部屋は15畳。ここで陛下は寝起きすることになっていた。

 

秋田杉の柾目など良い材木を使っているが、思ったより質素だ(・∀・)

 

 

1945年12月当時の写真

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.139、抜粋

 

 

 

1号舎

東(向かって右)から、倉庫→押し入れ→和室(寝室)→書斎(洋間)→拝謁の間→2号舎への階段→詰所。初めは天皇・皇后両陛下の行材所としてつくられた

 

 

なお、現地視察に来た侍従(小倉侍従)は「陛下の施設は大変質素で良い。例えば板の間に敷物を敷いてその上にお寝み願ってもいいと思っています。陛下は日常今までずっと日本間はお使いにならない」と発言。同行していた松代施設隊の隊長加藤少佐は、天皇の部屋の趣向まで知らなかったようだ。

 

*

2号舎

皇后行在所(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高90%

間取りは1号舎とほぼ同じ

初めは皇太后・皇太子・内親王・直系3宮家の住居としてつくられた

 

ここから小坑道=天皇・皇后両陛下専用の地下行在所(地下壕)に入れる!

  ↓  ↓  ↓

 

・・・はずだったが、松代地震観測所の無人化に伴い、小坑道の公開はここ数年行われていない。公開と言っても地下壕に入れるわけではないが。

 

 

両陛下専用の地下壕(3号舎)内にある風呂場

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.143、抜粋

 

3号舎(天皇・皇后専用の地下壕)は半円形の坑道

 

幅9m×高さ4.5mで長さ40m。坑道内部はトンネルと内壁の間に空気孔をつくっている。漆喰と檜材で内装を施し、床材はナラ材でフローリングにしている。5〜6室に区切って、天皇・皇后用に各1部屋、残りは会議室。いづれもニスは塗らず木地のままで装飾も無し。

 

地下壕掘りは鹿島組と配下の朝鮮人労働者が担当。

内装や仕上げは陸軍の2つの部隊が担当した。

 

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.143、抜粋

 

奥が天皇行在所(1号舎)

手前が皇后行在所(2号舎)

駐車場はかつて井戸があったところ

 

 

2号舎も左に増築されているようだ

 

 

 

行在所の南は神田川

 

*

5号舎

宮内庁(鉄筋コンクリート造覆土式)、出来高85%

初めは3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)の住居としてつくられた

 

舞鶴山の山麓がカーブしているため、5号舎も「くの字」に曲げられてつくられた。「くの字」にある階段と出入り口が、1・2・5号舎の玄関となっている。

 

玄関の西側が宮内省大臣・内大臣・侍従武官長などの部屋に割り当てられた。

 

 

 

*

4号舎

仮行在所(木造平屋)

 

日本本土への空襲が激化しつつある昭和20年3月、急な天皇の動座に備えて、舞鶴山近くの民家から住民を立ち退かせ、この民家を改装して仮の行座所とした。工期は4月末だが十分間に合った。第2期工事「マ(3.23)工事」で行っている。

出典:青木孝寿「改訂版 松本大本営 歴史の証言」P.79、抜粋

 

木造平屋の仮行在所は戦後、恵愛学園という児童養護施設で使われた。

だが近年立て直しにより消滅している。

 

*

読売新聞社著「昭和史の天皇3 - 本土決戦とポツダム宣言」によれば、昭和20年6月中旬、宮内省の侍従と総務局長が視察に来た。同行案内人は松代大本営発案者の井田陸軍中佐。井田中佐は「松代への天皇動座は陸軍が主体となってやっているので、海軍と内務省には絶対に内密でお願いしたい」と主張している。

 

陸軍省は、賢所(三種の神器のうち、宮中の賢所の神鏡を祀る所)については、陸軍省も現場も天皇行在所内、天皇の常の御座所(部屋)の隣室に神棚をつくり、ここでOK!と思って施工した。有事の際は小坑道(天皇皇后専用の地下坑道)の地下行在所の奥の部屋(物置)に移す予定。

 

軍事史学第20巻第2号「証言記録・松代大本営工事回顧」にいれば、現地視察した宮内省の要望は下記の通り。

①賢所:「三種の神器は不可侵。賢所は陛下の常の御座所と伊勢の皇大神宮を結ぶ線上、南面に造営しなければならない。道営に際して工事人は純粋な日本人(無垢な青年)でなければならない」と強く要請している。

 

②皇后の行在所:陛下とは別の建物で(2号舎を割り当てることで解決)

 

③皇太子の行在所:宮中の仕来りで別の場所に造営すること。

と、厳しく指摘されたようだ。こうして新たな工事が追加され、昭和20年7月より賢所、皇太子・皇太后・皇族壕の工事が着工した。

 

*

賢所

 

賢所は行在所の近くの弘法山の南面の山腹に決まった。弘法山は陛下の常の御座所と伊勢の皇大神宮を結ぶ線上の南面で、砲撃されても坑道を稲妻状に分岐させれば爆風を滅殺させられる工法が出来る山だったようだ。

 

賢所を掘削する工事「マ(7.23)工事」は、熱海鉄道教習所の生徒が担当した。着工から2週間ほどで取付道路まで完了。坑口をつくるための準備にとりかかったところで終戦。現在は土砂堆積と廃棄物で完全に埋まっているそうだ。←行っていない

 

*

宮内省の指示により、皇太子・皇太后・内親王・直系3宮家専用の住居は、行在所から約16km離れた長野市茂菅の善光寺温泉近くにある善白鉄道トンネルを利用した(チ号倉庫)。善白鉄道は昭和18年に運行廃止、翌年には軌道撤去。このトンネルはいわば廃トンネルで、4本のうち3本を整備して使うことにした。

 

トンネル内に皇太子・皇后・内親王・直系3宮家が住めるよう、各々の木造住宅をつくる計画だった。工期は9月末。この工事は準備している間に終戦。ちなみに皇太后と皇太子は田母沢御用邸(栃木県日光)に疎開していた

 

*

マルゴ車(○五)特別運搬装甲車

昭和19年秋、天皇・皇后両陛下の動座用に特製の装甲車が2台製作されたが、居住性も走行性能共にイマイチだったので、翌年に94式軽装甲車の外装および内装を特注品に変更した車両が新造された。

 

 

○五(特別運搬装甲車)は時速40キロで、従来の装甲車より2周り大きく、前輪はタイヤだが後輪は戦車と同じ無限軌道を持つ半装軌車構造。二重鋼板(小口の速射砲なら跳ね返す強度)で黄色と緑の迷彩ペイントが塗られていた。必要に応じて対空対地用の重機関銃が据え付けられるようになっている。

 

内部は前室に侍従武官の部屋、皇族の居室となる奥の部屋には天井にシャンデリア、床に絨毯、ソファ1台にマットレス1台が置かれていた。

 

東京の空襲が激しくなると、天皇を護衛するのは戦車隊の役目になった。2台の○五を前後13輌の戦車で護衛するもの。本土決戦時には空から落下傘部隊に奇襲されて包囲されることを想定、攻撃を排して突破脱出する作戦も考えられていた。移送訓練は連日秘密裏に行われ、機密を守るために主に夜間に行われていた。

 

終戦後の8月25日、近衛師団将校が宮内省前に○五を置いた以後、消息不明。

 

*

なお、海軍も大本営海軍部の工事に着手していた。

 

長野市安茂里小市には高さ2.3メートル、幅3.2メートルの地下壕があり、50メートルほど掘りY字形に左に15メートル、右に30メートルほど掘っている(現在は入口から20メートル地点まで行けるようだ、以後崩落)。昭和20年6〜7月頃より工事が始まっていたようだ。

 

裏付けになるのは村長と元高校教諭の2つの日記。掘削に当たった旧海軍第300設営隊の隊長と主計長が、1984年に防衛研究所の研究員に対して送ったものらしい。

 

書簡には、陸軍が松代地区に大本営移転のための地下壕を建設しているが、海軍が入る余裕はないため、軍令部職員約千人が入れる地下壕を新たに掘るよう指示があり、昭和20年6月末に先遣隊約500人を派遣したと記されている。坑そのものはまだ着工しなかったとも書かれており、実際に掘られたのは通信隊などのための壕ではないか?とも。

 

*

天理大本営

 

昭和18年頃、海軍は奈良県天理市豊田町の一本松山付近に、海軍大本営と天皇御在所を移す計画=天理大本営(仮)が実行に移されてされていた。

 

大和海軍航空基地に海軍総隊司令部・第三航空艦隊を移動させ、一本松山付近の地下壕に大本営海軍部・天皇陛下を動座させようと考えた。

 

鳥居民著「昭和20年6月9日~13日 第一部=11 本土決戦への特攻準備」によれば、海軍高官は高松宮に対して、「天皇が松代大本営に遷ると戦争の継続を主張する陸軍の虜になってしまう恐れがある。これを阻止しなければならない」と進言したようだ。

 

昭和20年5月より、既に設営されていた大和海軍航空隊大和基地の格納壕を、天理御座所(奈良行宮)とよばれる行在所壕にすべく、大リノベーション工事に着手、終戦時には9割完成していたという。機密保持から工事には民間人や朝鮮人は使わず、予科練生約2,000人を動員している。

 

同書によれば「軍務局第一課当の関係者は8月1日に日帰りで現地を視察した。しかし(天理大本営の)規模が小さく、また状況が変化したため、この案(遷宮)はついに沙汰やみとなったのである」とのこと。

 

行宮地下壕は上下2層、坑道も含め総檜張り。電気・電話設備が引かれ病院も完備。下段中央に10畳ないし20畳ほどの御座所があった。調度品類なども既に搬入されていたが、終戦後、盗難に遭い今はない(壕も土砂堆積や崩落で大半が埋まっている)。

 

以上、高野真幸著『幻の天理「御座所」と柳本飛行場―朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブック』より抜粋、他。