日立航空機立川工場変電所

東京都東大和市桜が丘2丁目(東大和南公園内)

東大和市指定文化財(1995年)

内部公開は(水)(日)13:00〜16:00、無料。

 

 

昭和13年、国産航空機用機のエンジンを製造する東京瓦斯電気工業株式会社(瓦斯電) 航空機部の変電所として作られた。工場の敷地北西部に存在し、高圧電線で送られてきた66,000ボルトの電気を3,300ボルトに減圧して工場内へ供給する施設だった。

 

 

翌年、航空機部を日立航空機に経営権を譲渡したため、日立航空機株式会社立川工場立川発動機製作所の変電所に改称する。

 

昭和20年2月と4月に機銃掃射や空襲により被災。隣接する工場は大破(全体の約8割)したが変電所は大きな被害は免れた。

 

変電所周囲には、碍子やケーブルなど、日立航空機立川工場で使用されていたと思われる部材が一見乱雑に並べられている。

 

 

変電所の正面には階段が設けられており、2階へも直接出入りできるようになっている。

 

 

 

 

 

 

 

入室!

 

 

 

 

 

 

 

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2階の変電所へ

階段にも被弾している

 

 

 

 

往時の基盤

戦後は変電所内の電気を担っていたそうだ(現役)

 

 

 

これは戦後か?

 

 

 

 

 

 

進駐軍が書いたのではないか?なる英数字

 

 

当直室・休憩室

陸軍/海軍でもコンクリート製施設内に、同様のものをつくっていた。

 

 

きちんと作り込んでいる!

 

 

瓦斯電(東京瓦斯電気工業株式会社) の標識

 

 

 

こちらは戦後のロッカーかな?

ネジ釘が「マイナス」なので昭和のもの

 

 

正面玄関上のバルコニーより

 

 

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戦後の設備

 

 

 

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弾痕は変電所南側に集中しており、爆撃機の侵入が南方からであったことが判る。変電所裏側(北)には受電設備が残されている。正面と異なり、裏側の損傷は少ない。

 

 

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日立航空機最大規模のこの工場では、最盛期で約14,000人が従事。月産350基の発電機を納入した。発電機は陸軍の93式・95式練習機、白菊、一式双発高等練習機にも搭載された。

 

戦後、富士自動車(後の小松ゼノア)などの変電所として、内部の変電施設の更新を実施しながら平成5年(1993年)まで使用された。変電所を含む工場の敷地の一部を東京都が買い取り、公園整備の一環で変電所取り壊しの案が浮上したが、保存を求める市民運動に東大和市は反応して、変電所は東大和市が管理して市民に公開することを条件に変電所は残った。

 

 

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日立航空機立川工場変電所の最寄り駅は西武鉄道拝島線「東大和市駅」。

西武鉄道拝島線は、多摩湖鉄道の一部、ブリヂストン工場の引き込み線、日立航空機立川工場の専用鉄道をツギハギしてつくった。


日立航空機立川工場への専用線(多摩湖鉄道の支線)は、現在の小川駅から玉川上水駅の間(約4km)に相当する。昭和19年、生産力・輸送力強化のためこ同工場への鉄道敷設が必要になり、要請を受けた武蔵野鉄道(昭和15年に多摩湖鉄道は同系の武蔵野鉄道に吸収合併)が専用鉄道を敷設した。昭和25年に武蔵野鉄道と合併した西武鉄道が同線を取得、上水線として小川~玉川上水駅を開業した。


小川駅の東側には、車や戦車などの修理を行なう陸軍東京兵器補給廠の小平分廠があり、小川駅から工場内へ引き込み線が設けられていた。戦後、同地にブリヂストンタイヤ東京工場が進出した。昭和37年、西武鉄道がこの路線を利用して小川駅~荻山駅間の短路線を作り、小平駅~玉川上水駅間を上水線として開業した。


昭和43年に、西武鉄道は上水線を延伸して、拝島で国鉄青梅線・五日市線・八高線に、国分寺で中央線と接続した。これにより西武上水線は西武拝島線と名前を変えた。

 

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東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。


 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。


 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。


 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。


 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。


 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。


  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会