[津軽要塞]大間鉄道
青森県むつ市の大畑駅(大畑線の終点)から同県下北郡大間町の大間駅までを結ぶ、未完の鉄道路線。
日露戦争で軍事上重要な地域として、渡島半島(函館要塞/津軽要塞)〜津軽海峡を〜下北半島(津軽要塞及び大湊警部府の大湊軍港)は認識された。なお渡島半島の汐首岬と大間崎は17.5kmしか離れていない。
大正11年、鉄道敷設法別表1号掲げられた建設理由は「下北半島の開発と対北海道連絡線」だったが、国防の観点から「津軽要塞大間崎砲台への軍事物資や兵員輸送も兼ねて、(海軍)大湊警部府の大湊港に近い田名部(むつ市)下北駅から大間までを結ぶ鉄道路線=大間鉄道」としても計画されたのがこの路線。
下北駅から東北本線の野辺地駅までは、既に大湊線が営業しており、大間鉄道が開通すれば、下北半島の先端から東北本線にアクセスできた。
なお、津軽海峡を挟んだ対岸も国防の観点から「津軽要塞汐首岬砲台への軍事物資や兵員輸送も兼ねて、函館の五稜郭駅から戸井駅まで結ぶ鉄道路線=戸井線」も計画されていた。津軽海峡さえ渡れば双方に鉄路があるのは強い。
昭和12年6月、国鉄によって工事が開始された
(対岸の戸井線は昭和11年に工事開始)。
昭和14年11月に下北駅 - 大畑間が大畑線として第1期開業区間として開通した。
大畑駅 - 釣屋浜駅 - 木野部駅 - 赤川駅 - 下風呂駅 - 桑畑駅 - 易国間駅 - 蛇浦駅 - 大間駅 - 奥戸駅
大畑駅以北の第2期開業区間は大畑〜桑畑で、桑畑には海軍の防備衛所があった。昭和13年からこの第2期分も工事も進められ、昭和16年10月の時点では残り約5キロを残して竣功していた。
だが昭和17年には突如予算が半減され、昭和18年12月に鉄道建設審議会から「資材不足」を理由に大間鉄道・戸井線共々、工事の中止の指示が下った。人員の不足も深刻だったという。
戦後、工事再開の陳情がされたが、再開されることなく放置された。大間線の用地を道路に転用するため昭和44年に青森県が購入、のちに国道279号にとなったため、大間線の開通の可能性はなくなった。
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私は橋梁とトンネルが好きなので、現存するこれらを見る。トンネルは残念ながら封鎖されたようだが、アーチ橋は幾つかあった。
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下狄川を含めた谷を渡る二枚橋梁
(無筋コンクリートの7連続充腹アーチ橋)
昭和16年8月竣工
橋の長さは101.5メートル、支間長12メートル
待避所もある
高台から見ようと上がってみたけど、ぜーんぜん見えず。
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木野部川橋
(2径間連続の無筋コンクリートアーチ橋)
着工するも竣工せず
国道279号線の拡張&改良工事で、半ば埋まってしまったらしい。
裏へ回ってみよう
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風呂温泉にある風間浦橋梁
(13径間連続の無筋コンクリート充腹アーチ橋)
昭和17年10月竣工
足湯付きの遊歩道として再整備された下風呂温泉のアーチ橋「メモリアルロード」
国道279号線に降りて、全景を見る(みえない)
大間線の築堤を越える為のアンダーパス
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焼山沢橋梁
3径間、円筒形の橋脚、綺麗なコンクリート橋
大畑線として開業した区間は1985年、地元バス会社の下北交通が運営を引き継いだが、2001年に廃業した。未成区間の大畑~大間間は、一部の路盤が国道279号の建設用地に転用された。
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津軽要塞
前身の函館要塞は「商業港である函館港の防衛」を主目的としたが、津軽要塞は「津軽海峡を守備範囲」とした主目的に変更されている。大正8年、要塞整理案により函館要塞を廃止され(津軽要塞を設置)、函館要塞は昭和2年に津軽要塞に吸収された。
函館要塞時代の砲台で津軽要塞に吸収されたのは、御殿山第2砲台(演習砲台として存続)、千畳敷砲台(28cm榴弾砲6門のみ)、立待堡塁(昭和11年除籍)、立待演習砲台。
津軽海峡の防備は「海峡東西両口で敵艦の航行を妨害」だったが、航空機や砲など兵器の進化に伴い「敵主力艦隊との交戦はあり得ない」との議論がなされ、昭和8年3月に修正計画が決定された。まず、大口径砲台の建設を中止した上で、防空施設や対潜水艦、夜間の防禦力に重点を置いた要塞を建設する、というもの。
結果、汐首第2砲台(大口径砲から中径カノン砲へ設置変更)、大間崎第2砲台(中止→12K)、竜飛岬砲台(大口径砲から中径カノン砲へ設置変更)、尻屋崎砲台(中止→野砲)、白神岬砲台(大口径砲から中径カノン砲へ設置変更)になった。