[網走地区/網走港]鱒浦トーチカと防空陣地

北海道網走市網走市鱒浦

 

 

殆ど資料がない鱒浦トーチカ。

 

「台町しおさい公園下のトーチカ」を探索した網走歴史の会・トーチカ調査報告に、あるくらい。今回も参考にいたしました!ありがとうございます。

 
網走歴史の会・トーチカ調査報告に書かれているようにJR鱒浦駅から南へ約200mの地点にある。ちなみ丘の上ではなく中腹。

 

 

鱒浦トーチカにはこの廃墟(工場)の建物の手前から横をまわるように進み、つきあたりから山に入る。許可は廃墟前の民家で取った。

 

 

廃墟(工場)の裏側の通路の突き当たり、右側の斜面を直登りする。ここも例によって不法投棄のゴミ山だったりする。登りきると掘削された平地にでてる。踏み跡があるので、そのまま進めば良い。

 

奥に何か構造物がある。

 

 

まずはお掃除(草むしり)をして撮影

 

向かって左がコンクリート擁壁、右が石積みの擁壁になっている。

 

 

中央の長方形の穴

銃眼なのか排水溝口なのか?

 

ギザギザ(段々)が少ないし小さすぎる気もするが、トーチカの作り方が藻琴トーチカに酷似しているので、これは銃眼だろう。内部から確認できないのが残念だった。

 

藻琴トーチカに酷似しているので、ならば上に観測所があるはず!、と登ってみる。

 

おおおおおおおおおお!

(またお掃除をした)

 

丸い穴は後年、誰かが開けたものだろうw

それにしてもコンクリートが薄い

 

穴から覗いてみる

 

観測室でしたな。

 

横にまわってみると筐体の下に出入口?

 

外階段の下にこれまた後年、誰かが開けた穴がある。

 

 

ではこの穴から入室!

 

 

中は意外とちゃんとしていた!

階段があるので上がってみた。

 

 

右折すると小さな部屋がある

 

先程の観測室ですな。

外から覗いたときの穴もみえるし。

 

 

観測窓は幅はあるけどコンクリートは薄い。盛り土で擬装するので薄くても良いとはんだんしたのか?藻琴トーチカも浜藻琴トーチカも同様に薄い。

 

 

 

観測窓の下には伝声管のようなものもある

 

では戻ろう

 

ここの造りは結構、雑だ

 

 

階段を下る

 

私は途中の穴から入ったのか!

 

階段はまだまだ続いているようだが、途中から土砂で完全に埋まっている。この階段を下りきった所に、1階の「銃座」の部屋に行く階段が連絡していたのだろう。藻琴トーチカもこの造りだった。

 

外に出た。

 

ここは縦型2階建てトーチカで、2階が観測室と1階に銃座、それぞれに独立した出入口があったようだ。

 

観測室の周囲を観察してみる

 

コンクリートの補強は針金かぁ

無筋と変わらない強度だろうな。

 

 

観測室の真下に四角の穴が2つある

排水?伝声?

 

 

 

 

 

観測室の上に立ってみた

 

さて。

 

トーチカの立地はJR釧網本線の線路脇の崖地の少し内陸側。丘を少し登ってみたら崖の縁からの景色は抜群に良かった。

 

ん?

 

 

ん?ん?

 

 

あれ?

これっで防空陣地じゃないですか!

 

 

ほお。

砲陣地からトーチカを見下ろす

(砲陣地とトーチカの位置)

 

砲陣地から180度くらい見渡せる

 

こういうのが他にもありそうなんだけど、雑草の背丈が高いのとダニにやられたので退散。

 

ちなみに観測室から砲陣地から見上げると、こんな感じ。

 

トーチカから観測室と砲陣地を見上げると、こんな感じ。

 

撤収!

 

鱒浦トーチカと砲陣地はこの丘に潜んでいた。

 

 

*

網走地区の防御陣地

 

網走には第7師団第31警備隊(北部5241部隊)が配置され、美幌・女満別の海軍航空基地の警備を担当した。網走などでトーチカや塹壕などの築城工事が始まったのは、昭和19年(1944年年4月以降。

 

第31警備隊は昭和20年(1945年)3月27日に第31・32警備隊を基幹として独立混成第101旅団が編成された。当初は標茶から北海道東部方面の防衛を任務としていたが、同年5月に苫小牧・早来方面に移駐してしまった(勇払平野の防御陣地を築城)。

 

昭和20年(1945年)3月以降は、歩兵第28連隊第2大隊が網走の東半部の守備を担当、終戦を迎えた。

 

網走海岸では5基のトーチカ(全7基/2基喪失)、掩蔽部1箇所(発電所?)が現存している。喪失したトーチカはモヨロ貝塚と二ツ岩。

 

水際陣地に配したどのトーチカも1トン爆弾に耐える重掩蓋で構築された。網走地区のトーチカは観測に重きを置いている。

 

トーチカの築城は春から秋は主に地上工事、冬は地下作業と計画的に行われた。防御陣地の専門家が少ないため、築城担当の将校が試行錯誤しながら完成させている。資金もセメントなどの資材も不足していたが、特に鉄は極端に不足していた。そこで既存の牧場などで使われていた針金など結束して木材を束ねてトーチカの強度を保った。トーチカの作成はある程度現場に任せられていた。

 

戦後、海岸段丘につくられたトーチカは、土砂の採取、海蝕/大きな地震など自然災害などによる地滑り等で露出しているものが多い。露出したら滑落してやがて浜の砂に埋もれてしまう運命にある。諸般の都合で何基かのトーチカを撤去したとの話もあるし、未発見のまま埋もれている可能性のトーチカもある。

 

結局、連合軍に上陸をされることなく終戦。