[十勝地区]当縁川河口トーチカ(滑落前)

北海道十勝郡大樹町付近

 

 

北海道広尾郡大樹町のJAXA&インターステラテクノロジズ社実験場がある当縁川(とうべりがわ)の河口、ここもトーチカがある。

 

※各種通行止めの案内が頻繁に立つので要注意。私は許可済みで敷地内に入っている。

 

 

幅約5m×高さ約4m×奥行き約6m。

 

海岸段丘の土中に築かれていたが、海蝕と地震など自然災害でトーチカが露出していたのを2017年5月に発見された。

 

トーチカの基礎部分(床下)の土砂は既に無く、「宙に浮かぶトーチカ」とも呼ばれていた。

 

 

この真下にトーチカがある!

乗ったら崩落しそうなので覗き込むことはせず。

 

 

 

 

 

下りてみる

 

 

おおおおおおおおお!

確かに宙に浮いている(・∀・)

 

 

川の流れが変わったのか、トーチカ下までは行かれず。

 

 

「頑張って!」とトーチカに声かけして去ったYO

 

 

つづく

 

 

 

※大樹町内では沿岸などにトーチカを計21基を確認(大樹町教委)

 

要塞探訪様のブログを参考にいたしました

ありがとうございました!

 

 

*

十勝の防御陣地

 

道東の太平洋側海岸線は、戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。戦局が悪化すると、国後島方面からの連合軍の侵攻(北海道上陸)を想定しなければならなくなった。それは連合軍による帝都爆撃のための基地の構築(道東の計根別飛行場)と、道東を取った後は札幌を陥落させて北海道全体を取ることを意味する。

1945年(昭和20年)6月30日時点で、連合軍の北海道本島での上陸に対する決戦の地を、択捉島の天寧飛行場、東部(根室〜十勝)から計根別平地、西部(勇払海岸)から苫小牧平地と想定している。

 

1944年(昭和19年)年3月に北海道の主力部隊第7師団から野戦部隊を戦時編成(将兵約2万名)して帯広に移駐させた。同じ頃、陸軍第一飛行師団の師団司令部を帯広に移駐させた(保有機数は約180機)。同年4月、陸軍はまず根室半島に半永久防御陣地を構築することを決めた。

 

連合軍の上陸は水際陣地と塹壕陣地で止めることにした。これは地形的な制約もあり縦深陣地の構築が出来なかったため。さらに釧路、十勝海岸からの上陸と帯広への進軍を警戒。同年7月、帯広には第7師団の主力部隊配置した。

 

 

十勝地区でもトーチカを中心とした水際陣地を構築を開始した。

 

 

十勝海岸の大樹町(十勝川と歴舟川の間の丘陵地帯)では骨格陣地を構築した。

※骨格陣地は、敵軍からの砲撃に耐えられる隠顕陣地、対戦車防御のための塹壕陣地の組み合わせ(ほほ未完で終戦)。

 

ここを突破され帯広に進軍された場合を想定して阿寒一帯にも複郭陣地を構築した。この複郭陣地を拠点としたゲリラ活動により敵の計根別飛行場使用を阻止する構想だった。

 

水際陣地に配したどのトーチカも1トン爆弾に耐える重掩蓋で構築された。トーチカの築城は春から秋は主に地上工事、冬は地下作業と計画的に行われた。防御陣地の専門家が少ないため、築城担当の将校が試行錯誤しながら完成させている。資金もセメントなどの資材も不足していたが、特に鉄は極端に不足していた。そこで既存の牧場などで使われていた針金など結束して木材を束ねてトーチカの強度を保った。トーチカの作成はある程度現場に任せられていた。

 

海岸の砂地/海岸段丘のトーチカは、巨大な穴を堀って木枠をはめてコンクリートを流す方法がとられた。トーチカの上に擬装用の盛り土をして完成、銃眼しか見えないようにしていた。

 

戦後、海岸段丘につくられたトーチカは、土砂の採取、海蝕/大きな地震など自然災害などによる地滑り等で露出しているものが多い。露出したら滑落してやがて浜の砂に埋もれてしまう運命にある。諸般の都合で何基かのトーチカを撤去したとの話もあるし、未発見のまま埋もれている可能性のトーチカもある。

 

結局、連合軍に上陸をされることなく終戦。