定遠館

福岡県太宰府市宰府

 

「定遠」とは清国北洋海軍(北洋水師)の定遠級の1番艦のこと。1番艦も2番艦(鎮遠)もドイツ製戦艦で明治18年(1885年)に就役、清国北洋海軍の旗艦となり、当時東洋一の堅艦と呼ばれた。

 

 

明治27年(1894年)7月、明治二七八年戦役(日清戦争)が勃発。

 

定遠は黄海海戦で日本海軍の戦艦からの副砲の速射砲で艦橋が崩壊したが、黄海海戦の後は威海衛に逃げ込んで防備に当たっていた。だが翌年2月5日に日本軍の水雷艇の夜襲雷撃を受けて座礁する。"砲台"として戦闘を継続したものの9日には陸上からの攻撃を受け損傷した。翌日、日本軍による鹵獲を避けるために自沈。艦長は自決した。

 

日露戦争後、旧福岡藩士で太宰府出身の小野隆助は、日本海軍から許可を得て(私財を投じて)「定遠」の一部の引揚げを行った。*中国当局は2020年9月、劉公島近海で重さ約18トンの「定遠」の艦名を記したプレートや砲弾、銃弾を引き揚げたと発表。

 

太宰府天満宮に近い自邸に定遠の艦材を用いた「定遠館」を建てた。

(前庭は現在、駐車場になっている)

 

 

門扉は定遠の鋼板で、わざわざ弾痕が残る部分を使っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、敷地内へ。

定遠館は思ったより小さい。

 

 

玄関には艦内で使われていた何らかの手すり

 

 

 

 

屋根裏の梁は定遠の帆柱(帆のロ−ブを通す輪付き)、

 

 

 

 

軒下には端艇(cutter boat)用のオール

噂では改修工事の時に、大工がオールを切り刻んで破棄、とか(T_T)

これはレプリカだそうで。

 

 

 

内部には艦長室の扉やデッキなど数多くの部材が使用されているようだが、内部は非公開。

 

 

 

 

 

 

 

 

地元の民間会社の所有物になっていたが、現在は太宰府天満宮所有。

 

何故、戦艦を引き上げ、館を建てた?

 

小野隆助は常々、「幕末から明治初期における福岡藩がやらかした数々の汚名を挽回して、明治天皇に強くその忠誠を訴求できる機会」を考えていたらしい。

 

幕末の福岡藩の藩主(黒田長溥)は、佐幕・勤王には関わらず、全国一和(内戦を回避/挙藩一致で近代化しよう)を標榜していた。だが藩内では勤王派の犯行よる暗殺事件が頻発。勤王派による藩転覆のクーデター計画が露見したため、藩主は勤王党を粛清して佐幕政権になるが程なく大政奉還の令を聞く。

 

藩主は勤王派の弾圧の責任をとり、佐幕派の家老らを切腹させて勤王政権が復活させた。戊辰戦争では新政府軍に藩内の寄せ集めの兵を出すが、大半が武士ではない荒くれ者ゆえ評判は最悪だった。

 

そして福岡藩製の莫大な量の偽札が新政府にバレる。さらに新政府が布告した徴兵令・解放令に反対した大規模な一揆(筑前竹槍一揆)が起きる。さらにさらに勤王派の二世が西南戦争に呼応して福岡で挙兵(福岡の変)、結果は惨敗。以後、福岡藩は新政府に相手にされなくなった。

 

明治時代半ばになっても福岡藩関係者からは、衆議院議員を歴任した小野隆介以外は、軍部にも新政府中枢にも要人が出ていない。小野隆介は定遠引き上げを「福岡藩の汚名挽回と国威発揚も兼ねた事業」と考えたようだ。

 

定遠館を建てても福岡藩の評判はV字回復することはらなかったが、高い人望を集めていた小野隆介や旧藩主の黒田長溥による人材育成で育った金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎、 明石元二郎は、次の日露戦争ではそれぞれ政治家や実業家や外交官や陸軍将校として日本を救った。だが、福岡藩が復権するのは戦後のこと。

 

*定遠のクルップ式30センチの回転砲塔(主砲)の砲弾は須佐神社(和歌山県有田市)に「明治廿七八年日清交戦之際敵艦定遠ヨリ分捕之砲弾」として奉納されている。

 

定遠館

福岡県太宰府市宰府2丁目7−39