陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕

(東京都板橋区成増)

 

(赤丸は現存する有蓋掩体壕)

 

陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。

 

(誘導路脇の土塁の跡)

 

滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が展開した。

 

 

 

1944年(昭和19年)夏以降、成増飛行場周辺にはコンクリート製有蓋掩体壕が25基つくられたという記録がある。

 

 

1基の大きさは、幅約20メートル×高さ約5メートル、奥行き約13メートル。コンクリートの厚さ50ー70センチ。成増飛行場の有蓋掩体壕は住宅地に1基だけ現存している。

 

 

掩体壕の製作するにあたり、1基ごとにポンプ付きの井戸を1基以上設置して、汲み上げた水でコンクリートをこねて掩体壕を造ったとのこと。

 

1944年(昭和19年)11月、飛行第47部隊による米軍B-29大型戦略爆撃機に対する空対空(体当たり後にパイロットは脱出して落下傘にて帰還する)の特別攻撃隊「震天制空隊」が編成される。終戦時、鐘馗や疾風が90機あったと言われている。

 

1945年(昭和20年)3月と4月に空襲を受ける。

 

(赤丸は現存する有蓋掩体壕、と米軍住宅)

 

戦後は連合国に接収され駐留米陸軍家族用住宅(グラントハイツ)となる。1973年に日本に返還され「光が丘」として再開発された。

 

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成増飛行場の現存する有蓋掩体壕。

 

滑走路の北西、現在の住所で言う赤塚新町の住宅地の中にある。

 

 

 

住宅地の路地奥にあるため、全容がわかりにくいw

 

 

 

鉄筋コンクリート製の本体上には、木造2階建ての住宅2棟が完全に乗り、さらに1棟の一部が掩体壕を土台のように使っている。掩体壕の中に家屋がある(・∀・)

 

 

掩体壕の中に家屋は、純日本家屋だ!

 

 

隣家の1軒の家屋がその一部分を土台に使っている。

 

 

 

 

 

 

よくあるのが掩体壕=倉庫、という使い方だが、成増飛行場の掩体壕は奇天烈な再利用。数々の地震にも耐えているのもスゴイ!

 

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陸軍成増飛行場の掩体壕

練馬区赤塚新町3-29あたり