[釧路地区]大楽毛トーチカ(新大楽毛トーチカ)

釧路市大楽毛南1丁目1付近

 

道東のトーチカは1トン爆弾に耐える重掩蓋で、コンクリートの厚さの規定は1メートルだが、湿地帯や地盤が良くない地のトーチカは工法が異なる。

 

半完成品を工場で作成してトラックで運び、設置する場所に置いた。半完成品のトーチカの上に掩体(天井)=分厚いコンクリート板をのせた。近くに現存する新富士トーチカ、根室半島の桂木トーチカ①も同様の工法だ。

 

 

大楽毛トーチカはJR根室本線の新大楽毛駅の近くの住宅街にある。変形六角形で、海側に2カ所の銃眼がある。1つの本室に2つの銃眼があるタイプ。観測所では観測窓が2つはよくあるがトーチカでは珍しい。

 

 

根室方向のコレと

 

厚岸方向のコレ

 

一周してみる

 

出入り面

 

厚岸側の面

 

根室側の面

 

では入ってみる(・∀・)

 

出入口には庇があったようだ。

大楽毛トーチカは民家に擬装していたので、その関係もあったのかもしれない。

 

 

庇は落ちちゃっているけど、支える支柱(壁)は残存している。

 

 

トーチカに盛り土をする擬装する従来のやり方が出来ない。そこでコンクリートの厚さを1.5メートルにして強度を持たせ、トーチカに屋根を掛けて民家の建屋っぽく擬装した。

 

今はこの擬装は無くトーチカ本体が剥き出しになっている。

 

では入場(・∀・)

 

 

内部の小さな弾薬庫を守るのため、爆風避けを兼ねてクランク状に進むように設計されている。

 

 

内部に入ると、せき板(コンクリートを流し込むための型板)や桟木(せき板を支える角材)が残っている。これは道東のトーチカに共通する。

 

外部のボコボコっぷりからは考えられないほど、壁面の仕上げは丁寧だ。天井のコンクリートの打設が悪いけど。

 

 

本室内に2つの銃眼がある。

 

 

とりあえず銃眼を覗く

 

 

分厚いコンクリートだ!

外に何かがある??

 

 

コンクリートブロックですな。戦後、物置か居住用に使っていたのだろう。

 

 

もうひとつの銃眼、コンクリートが厚い!

 

 

こちらは監視用の窓

 

 

本室の天井には、さすがに木材はあまり残っていないが、

 

 

弾薬庫?っぽい別室の天井は、いわば板張りになっている。湿気が多い地域なので、対策としてわざと木材(せき板)を残しているのかもしれない。

 

 

 

桟木は太くて丈夫だ。

 

 

 

 

 

トーチカを置いてみて、掩蓋の厚さに疑問があったのか、掩蓋を後から施工するつもりだったのか、掩蓋部分と下部(本体)のつくりが異なる。掩蓋部分は雑で歪んでいる。

 

 

*

大楽毛(おたのしけ)海岸にはトーチカが4基、現存している。同海岸では海上自衛隊の上陸用舟艇による揚陸訓練が行われる地なので、もし上陸戦があったらここが上陸ポイントになったかもしれない。

 

 

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釧路海岸の防御陣地

 

道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカとの戦争が避けられない場合には、根室臨時要塞を建設することになっていたが、アッツ島・キスカ島が陥落しても要塞司令部や重砲兵連隊などは編成されなかった。

 

戦局が悪化すると、国後島方面からの連合軍の侵攻(北海道上陸)を想定しなければならなくなった。それは連合軍による帝都爆撃のための基地の構築(道東の計根別飛行場)と、道東を取った後は札幌を陥落させて北海道全体を取ることを意味する。

1945年(昭和20年)6月30日時点で、連合軍の北海道本島での上陸に対する決戦の地を、択捉島の天寧飛行場、東部(根室〜十勝)から計根別平地、西部(勇払海岸)から苫小牧平地と想定している。

1944年(昭和19年)年3月に北海道の主力部隊第7師団から野戦部隊を戦時編成(将兵約2万名)して帯広に移駐させた。同じ頃、陸軍第一飛行師団の師団司令部を帯広に移駐させた(保有機数は約180機)。

 

同年4月、陸軍はまず根室半島〜釧路に半永久防御陣地を構築することを決めた。釧路方面では当初は水際撃滅を第一と考えたが、これはのちに変更され、敵艦の艦砲射撃の射程外で敵の撃滅を狙う。具体的には釧路市街東側に釧路オコツナイ骨格陣地を築城した。

 

釧路市街地後方の釧路湿地帯は遊撃地帯とし、ゲリラ作戦により計根別平地に進軍する敵軍を漸減する。釧路地区へ陸戦部隊が移動しやすいよう、浦幌〜釧路間を軍道に改修した。

 

引用:防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2> -千島・樺太・北海道の防衛-」(1971)

 

水際陣地に配したどのトーチカも1トン爆弾に耐える重掩蓋で構築された。トーチカの築城は春から秋は主に地上工事、冬は地下作業と計画的に行われた。

 

防御陣地の専門家が少ないため、築城担当の将校が試行錯誤しながら完成させている。資金もセメントなどの資材も不足していたが、特に鉄は極端に不足していた。そこで既存の牧場などで使われていた針金など結束して木材を束ねてトーチカの強度を保った。トーチカの作成はある程度現場に任せられていた。

 

海岸の砂地/海岸段丘のトーチカは、巨大な穴を堀って木枠をはめてコンクリートを流す方法がとられた。トーチカの上に擬装用の盛り土をして完成、銃眼しか見えないようにしていた。

 

結局、連合軍に上陸をされることなく終戦。

 

戦後、海岸段丘につくられたトーチカは、土砂の採取、海蝕/大きな地震など自然災害などによる地滑り等で露出しているものが多い。露出したら滑落してやがて浜の砂に埋もれてしまう運命にある。諸般の都合で何基かのトーチカを撤去したとの話もあるし、未発見のまま埋もれている可能性のトーチカもある。