[釧路地区]興津トーチカ

 

 

釧路市興津の海岸。

 

「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。

 

 

 

 

"トーチカ"から見た景色

 

 

"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。

 

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釧路海岸の防御陣地

 

道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカとの戦争が避けられない場合には、根室臨時要塞を建設することになっていたが、アッツ島・キスカ島が陥落しても要塞司令部や重砲兵連隊などは編成されなかった。

 

戦局が悪化すると、国後島方面からの連合軍の侵攻(北海道上陸)を想定しなければならなくなった。それは連合軍による帝都爆撃のための基地の構築(道東の計根別飛行場)と、道東を取った後は札幌を陥落させて北海道全体を取ることを意味する。

1945年(昭和20年)6月30日時点で、連合軍の北海道本島での上陸に対する決戦の地を、択捉島の天寧飛行場、東部(根室〜十勝)から計根別平地、西部(勇払海岸)から苫小牧平地と想定している。

1944年(昭和19年)年3月に北海道の主力部隊第7師団から野戦部隊を戦時編成(将兵約2万名)して帯広に移駐させた。同じ頃、陸軍第一飛行師団の師団司令部を帯広に移駐させた(保有機数は約180機)。

 

 

同年4月、陸軍はまず根室半島〜釧路に半永久防御陣地を構築することを決めた。釧路方面では当初は水際撃滅を第一と考えたが、これはのちに変更され、敵艦の艦砲射撃の射程外で敵の撃滅を狙う。具体的には釧路市街東側に釧路オコツナイ骨格陣地を築城した。

 

釧路市街地後方の釧路湿地帯は遊撃地帯とし、ゲリラ作戦により計根別平地に進軍する敵軍を漸減する。釧路地区へ陸戦部隊が移動しやすいよう、浦幌〜釧路間を軍道に改修した。

 

引用:防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2> -千島・樺太・北海道の防衛-」(1971)

 

水際陣地に配したどのトーチカも1トン爆弾に耐える重掩蓋で構築された。トーチカの築城は春から秋は主に地上工事、冬は地下作業と計画的に行われた。

 

防御陣地の専門家が少ないため、築城担当の将校が試行錯誤しながら完成させている。資金もセメントなどの資材も不足していたが、特に鉄は極端に不足していた。そこで既存の牧場などで使われていた針金など結束して木材を束ねてトーチカの強度を保った。トーチカの作成はある程度現場に任せられていた。

 

海岸の砂地/海岸段丘のトーチカは、巨大な穴を堀って木枠をはめてコンクリートを流す方法がとられた。トーチカの上に擬装用の盛り土をして完成、銃眼しか見えないようにしていた。

 

結局、連合軍に上陸をされることなく終戦。

 

戦後、海岸段丘につくられたトーチカは、土砂の採取、海蝕/大きな地震など自然災害などによる地滑り等で露出しているものが多い。露出したら滑落してやがて浜の砂に埋もれてしまう運命にある。諸般の都合で何基かのトーチカを撤去したとの話もあるし、未発見のまま埋もれている可能性のトーチカもある。