樺太日露国境第二天測標
「根室市歴史と自然の資料館」の資料室に、樺太日露国境第二天測標の現物が展示されている(・∀・)
ちなみにこの資料館は、1942年(昭和17年)に大湊海軍通信隊根室分遣所海軍通信隊の根室分遣所として建設されている。戦後は花咲港小学校として活用され、現在は資料館になっている。
1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス講和条約第9条にて樺太の北緯50度のラインに国境が引かれ、南が日本領になった。
新たに国境線となった北緯50度線上付近は人跡未踏と言って良い土地だった。急峻な山地もあり設置作業は困難を極めたとのこと。幅10メートル部分の森林が伐採され、西岸は樹木が無いため幅1.5メートルの濠を掘削した。
国境線上に「樺太日露国境天測標」なる天文測量に基づいた国境標石を4カ所に設置。1908年(明治41年)4月に作業を終え両国は国境の承認をもって終了した。
樺太日露国境第二天測標は国境を示す標石で、樺太の北緯50度線に4石が設置された。
第1号標石:鳴海(遠内海岸近く)国境線東端
第2号標石:ポロナイ川(幌内川)右岸付近
第4号標石:間宮海峡側ボズウラシチェニエ(安別)国境線西端
第3号標石:ハンダサ(半田沢)第2号と第4号のほぼ中間
(天文測量標石4基の間には、中間標石が17基と標木19基が設置された)
現存する標石は4基のうち3基
1号:サハリン郷土資料館
2号:この資料館
3号:1949年にソ連軍により破壊され台座のみ残存
4号:1985年頃に現地営林署が撤去、現地のロシア民間人が保管。標石の基礎は現地に残存。
1970年代、日本の北方領土返還要求に反発した旧ソ連国家保安委員会により標石の撤去が指示された。だが標石の撤去はもう少し後の時代になる。
4つの標石は全て日本製。意匠が志賀重昴氏、石は青森県産出の花崗岩で青森で粗工され現地で日本人石工が刻んだとされる(公式記録「樺太境界劃定事蹟」より)
現存するこの標石は、高さは68センチ×幅47センチ×厚さ27cm。4つの標石は現地で加工されたため、大きさは厳密には統一されていないが、将棋の駒のような同じ形状に加工されている。
標石は大きな基礎石の上にのせられていた。
南面:十六八重表菊と大日本帝国/境界
北面:双頭鷲章とРОССiЯ(ロシア)/1906/ГРАНИЦА(国境)
東面:天第二號/明治三十九年
西側:ACTP Ⅱ(天測2)←終戦直後の樺太侵攻時の弾丸跡あり
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この資料館にある第2号標石はポロナイ川(幌内川)右岸付近に設置されていた。設置工事は、着工が1906年(明治39年)8月13日、竣工は1カ月後の同年9月16日。
某年某月、スミルヌイフ(気屯)在住のアレキサンドル・ツイガノフがこの標石を撤去して所有していた。北海道新聞ユジノサハリンスク駐在の相原秀起記者が折衝して、1997年にこの資料館に寄贈された。
第1号標石は1987年(昭和62年)にソ連国境警備隊が撤去、台座も破壊された。標石はユジノサハリンスク(豊原)のサハリン州立郷土博物館(元樺太庁博物館)の2階に展示されている。
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根室市歴史と自然の資料館
根室市花咲港209