深浦水雷艇隊基地

 

長崎県対馬の浅茅湾の奥にある竹敷港深浦。

 

竹敷が軍事的な拠点とされたのは明治10年(1877年)とされる。1886年(明治19年)、ここに海軍水雷施設部が設置され、深浦水雷艇隊基地が建設された。

 

 

明治22年4月16日に公布された水雷隊条例に基づき「要港」としての指定され、竹敷海軍要港部に昇格(要港部は5ヶ所:横須賀・呉・下関・佐世保・竹敷)。要港部本部は東側の対岸(現在の海上自衛隊対馬防備隊)に置かれた。

 

日清戦争においては鈴木貫太郎(のちの海軍大将で第2次大戦終戦時の総理大臣)は水雷艇長としてこの基地から出撃。清国威海衛の戦闘や対馬沖海戦では大活躍している。

 

深浦水雷艇隊基地は来るべき日露戦争への備えとして、日清戦争終了後より石ドック(船渠)の建設整備が行われた。石ドックは1896年(明治29年)に竣工。以来、駆逐艦や水雷隊の艦隊根拠地として名をはせる。

 

(石ドックの最奥、スベリ)

 

日露戦争終了後、日韓併合により対馬自体の防備より、対馬海峡(朝鮮海峡)の防備に目を向けることになる。大正元年(1912年)に竹敷要港部は廃止(公文書では大正12年の勅令第59号を以って廃止)。

 

要港部は廃止されたが軍事拠点としては生き残り、鶏知から竹敷までの道路は大正9年12月に国道特10号(軍事国道;現在の県道197号線)として制定された。

 

1945年(昭和20年)5月、ずーっと使われなかった深浦水雷艇隊基地跡に、海軍の対馬警備隊本部がおかれた。竹敷海軍要港部の本部周辺(現在の海上自衛隊対馬防備隊)には特攻艇基地の設営が行われていたようだ。だが完成を待たず終戦となる。

 

 

左の石垣は沖合の方向に約400メートル続く。写真の石垣に造られた階段をのぼると平坦地が現れ、ここに終戦直前に設置された対馬警備隊の事務棟や隊長室(司令)があったらしい。現在は田畑で痕跡は全くなし。

 

 

 

石垣に造られた階段は、オリジナルなのか、終戦直前に石垣を崩してつくったのかは不明。

 

 

階段を登ると軍道に出る。

 

 

対岸。わかりにくいが石締切堤(石垣)が100メートル弱ある。対岸に何らかの施設があったようだが、白い建物(白松対馬竹敷工場)の私有地?につき探索出来ず。

 

入り江の出口に向かってあるく。

 

 

綺麗なアーチだ(・∀・)

 

 

振り返ってみる

 

 

 

この階段、よくみると石を面白い形で切り出している。

 

 

ズンズン、歩く。

 

 

 

進むにつれ、荒れてくる(*_*)

 

 

また上に登る階段(半ば崩落)があった。

 

 

DAINIPPON BREWERY(大日本麦酒)のビール瓶

 

 

突然、何かのコンクリート製構造物(基礎?)が現れる。

 

 

石垣に近い方には長方形の石柱が規則正しく埋められている。

 

 

 

さらに進むと縦に2連のコンクリート製貯水槽が現れる。

 

 

手前の貯水槽は底も側面も割れていないようで、雨水がたまっている。

 

 

奥の貯水槽は海水が流入している。

 

 

 

それなりに崩れている。

 

 

 

 

この先は雑木林と藪で進めないので、戻る。

 

 

護岸に石の係船柱がいくつもある。

 

 

 

石の係船柱は大半が元気で活躍中。

 

 

 

深浦水雷艇隊基地の跡地は石ドックとなっており、ドックとそれに連なる入り江の護岸が一式で残っている。

 

 

石積みの完成度の高さ、曲線を利用した技術の高さ、保存状態の良さから、公用地に面する203mが土木学会の「日本近代土木遺産」でAランクに指定されている。

 

 

対馬西側からのロシア帝国軍の侵攻、海軍の深浦水雷艇隊基地(のちに竹敷海軍要港部)もあることから、浅茅湾を見下ろす山々には、陸軍の対馬要塞が築かれている。

 

 

 

深浦水雷艇隊基地

株式会社白松対馬竹敷工場の隣というか奥の入り江

(長崎県対馬市美津島町竹敷4-133)