対馬要塞(昭和期)豊砲台④:権現山観測所

 

起工:昭和4年(1929年)5月10日

竣工:昭和9年(1934年)3月31日

備砲:45口径40糎加農砲(砲塔)1基2門

設置:標高45.4m

 

豊砲台は対馬北端の豊崎半島(上対馬町鰐浦)に構築された。釜山の鎮海湾要塞と共に朝鮮海峡(対馬海峡)の制海権死守を任務とする。

 

観測所は、上対馬町大浦の山(現在の海上自衛隊上対馬警備所)と上県町棹崎、西泊の権現山にあり、また砲撃指令は空中・地下・海底の三方方式で伝達されていた。

 

「西泊に観測所があるんですよ、時間があったら行きましょう」とガイドのK氏のサプライズ(・∀・)

 

 “對島要塞重砲兵聯隊史/壱岐要塞重砲兵聯隊史”によれば、豊要塞の観測所のひとつでした!

 

 

同誌によれば(p.64)、「観測所は鉄筋コンクリート造地下構造物で、88式電気式算定具を収納した」と書かれている。同時期につくられた多くの観測所とは異なり、長方形の建物(地下構造物)だった。

 

いわゆる88式海岸射撃具観測所で、算定具室・観測具室・司令室・通信室などで構成されている。88式海岸射撃具観測所は標高の高いところにあり、算定した敵艦の未来予測を電気的に決定し、電気信号にて砲側照準具へ誘導できるシステム。これにより砲台と観測所の間隔が10キロ程度離れていてもOKになった、とのこと。

 

(豊砲台と権現山観測所との距離)

 

 

出入り口は露出しているため、擬装が施されている。

 

 

 

 

あったはずの観測所の天井の鋼板は剥がされてしまっているため、鋼板の上の盛り土も無い。

 

出典:浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」

 

 

 

ここには本来、金庫式気密鉄扉があった。

 

 

算定具室・観測具室・司令室・通信室など。基本設計は何処の88式海岸射撃具観測所も同じ。

 

 

88式海岸射撃具観測所の仕様

 

88式海岸射撃具観測所の仕様

・1ー2層の地下鉄筋コンクリート造。

・上部掩蓋(天井)は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ溝形鋼、観測具室は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ鋼板を菅笠のように加工、を周壁にのせる。

・上部掩蓋(天井)の上にアスファルト等の防水を施し、その上にコンクリートを打設して固め、更に盛り土をして植栽で擬装。

 

この観測所は今は露天になっちゃったことを鑑みると、この観測所の上部掩蓋(天井)は380ミリ溝形鋼だったのだろう。戦後、鉄ドロボーが持ち去った、というやつですw

 

 

 

観測具室

 

 

 

では戻りますか。

 

 

出入り口に向かって右側の階段から上(盛り土)に登れるようになっていた。上には見張場があったと思われる。

 

 

 

 

時間が無かったので周辺の散策はやっていないけど、目の前に水槽っぽいものがあった。

 

 

おしまい(^^)/

 

必見

掩体(天井)が現存する88式海岸射撃具観測所

豆酘崎観測所

 

 

 

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対馬要塞

 

浅茅湾(浅海湾)竹敷地区にある海軍の拠点(深浦水雷艇隊基地など)の防衛のため、明治20年(1887年)の温江砲台から築城が始まり、日清戦争直前まで4ヶ所の堡塁砲台が築城される。さらに日露戦争までに三浦湾・舟志湾の防衛を加え、合計15の堡塁砲台が築城される。日露戦争後、海岸防御の見直しが議論された結果、大正2年(1913年)と大正6年(1917年)に浅茅湾を中心としたとした7ヶ所の堡塁砲台が廃止される。

 

日露戦争の勝利後、本土と大陸を往来する航路である朝鮮海峡(対馬海峡)の安全を図ることが重要視された。まずこれに関係しない5ヶ所の堡塁砲台が廃止される一方、大正13年(1924年)9月から昭和14年(1939年)までに10ヶ所の砲台が新規で築城された。

 

朝鮮海峡(対馬海峡)の防衛は、リニューアルした対馬要塞と、朝鮮半島南部の釜山にある鎮海湾要塞、下関要塞、新設した壱岐要塞によって、朝鮮海峡(対馬海峡)を網羅した。

 

対馬要塞の昭和期の砲台群は下記の通り

 

龍ノ崎第一砲台

竣工:昭和4年(1929年)3月

50口径30糎加農砲×2門(連装砲塔1基、戦艦摂津の後部主砲を転用)

 

豊砲台

竣工:昭和9年(1934年)3月

45口径40糎加農砲×2門(連装砲塔1基、巡洋戦艦赤城の二番主砲を転用、ただし戦艦土佐説・戦艦長門の説あり)

 

海栗島砲台

竣工:昭和10年(1935年)10月

45式(改造固定) 15糎加農砲×4門

 

龍ノ崎第二砲台

竣工:昭和11年(1936年)3月

50口径30糎加農砲×2門(連装砲塔1基、戦艦摂津の前部主砲を転用)

 

大崎山砲台

竣工:昭和11年(1936年)8月

45式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

郷崎砲台

竣工:昭和11年(1936年)12月

45式(改造固定) 15糎加農砲×4門 

 

棹崎砲台

竣工:昭和13年(1938年)3月

45式(改造固定) 15糎 加農砲×4門

 

竹崎砲台
竣工:昭和13年(1938年)9月
445式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

西泊砲台

竣工:昭和13年(1938年)9月または10月
45式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

豆酘崎砲台
竣工:昭和14年(1939年)1月
連装十五糎加農砲2基×4門

 

なお海軍は、昭和6年(1931年)の満州事変以降、島嶼部に防備衛所/砲台/射堡場(魚雷発射場)などを置き、対潜哨戒を主な任務とする防備隊を開隊している。朝鮮海峡(対馬海峡)は鎮海防備隊(のちに対馬警備隊に再編され壱岐水道と玄界灘も管轄)が担当したが、多くの諸施設が建設途中で終戦を迎えているようだ。

 

第二次世界大戦中、対馬付近に出没した潜水艦が日本の貨物船を攻撃したが、明治期より本格的な戦闘は一度も経験することなく終戦を迎えている。

 

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権現山観測所

長崎県対馬市上対馬町西泊

「権現山」ハイキングコース上にある。観測所は電波塔の隣。