[市ヶ谷台]大本営陸軍部地下壕①

*2025.7.2加筆

 

江戸城(皇居)の西北に位置する市ヶ谷台(市ヶ谷本村町周辺)は海抜31.4m、江戸城周辺で最も高い台地だった。

明暦2年(1656年)3月:徳川御三家の一つである尾張徳川家の第2代光友公が第4代将軍家綱から市ヶ谷台に5万坪を拝領、翌年1月に同地へ上屋敷を築いた。

明治元年頃:江戸城開場により官軍の砲兵陣地に

明治4年:御親兵(薩摩藩兵)の屯所に

明治7年12月:京都から兵学寮が移転して陸軍士官学校が開港、敷地に演習砲台もつくられた。

 

(明治37年3月の図)

 

明治31年5月:中央幼年学校予科・本科も併設。

大正9年、中央幼年学校本科は陸軍予科士官学校になる(そして陸軍中央幼年学校予科は東京陸軍幼年学校になり戸山町に移転)。

大正11年:関東大震災で校舎の大部分が倒壊、部分再建している。

 

昭和9年:陸軍士官学校(本科=陸士)が神奈川県の座間=相武台、航士は埼玉県入間=修武台へ移転。昭和12年6月:陸軍士官学校1号館(本部庁舎)竣工、ここに陸軍士官学校本部、陸軍予科士官学校が入った。

昭和16年:陸軍予科士官学校は埼玉県朝霞=振武台へ移転。

昭和16年12月、陸軍士官学校1号館に、三宅坂から陸軍省・参謀本部および大本営陸軍部など主要省部が移転、陸軍に於ける戦略上の中核の地となる。

 

昭和16年の1号館(本館)の配置

・地階は左側に陸軍省・右側に教育総監部

・1階は左側に陸軍省・右側に参謀本部

・2階は左側に陸軍省・右側に参謀本部・中央に大講堂

・3階は左側に陸軍省・右側に教育総監部

*

*

戦後、1号館には「第1復員省」が設置されたが、まもなく米軍に接収された。大講堂は極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使用され、1号館(本館)そのものは極東米軍司令部(朝鮮戦争時は国連軍司令部)となり、昭和34年に日本に返還されるまで使用された。

 

返還後、昭和35年から市ケ谷駐屯地、統合幕僚学校、陸上自衛隊東部方面総監部等が使用した(昭和45年11月25日に三島事件)。防衛庁が港区赤坂から市ヶ谷に移転することが決まり、東部方面総監部は朝霞へと移転。1号館は部分移設(=市ヶ谷記念館)されるが全面解体され、現在のA〜F棟などが新築され、2000年(平成12年)5月8日に檜町(港区赤坂9丁目)から防衛庁や防衛装備庁などが移転し現在に至る。

 

現在の防衛省A棟庁舎は陸軍省時代の1号館(本館)。現在も中心となる庁舎で、防衛大臣や陸海空3幕僚長ら最高幹部はこのA棟。A棟庁舎南側の正面玄関前(車寄せ)には儀仗場がある。

 

防衛省敷地南側の斜面、つまり、儀仗場の南側に面する前庭=日本庭園(雑木林)の地下14m地点に、大本営陸軍部地下壕が掘られた。この地下壕の出入口は、1号館真下(東南)と靖国通りの北にある。

 

 

1号館(本館)から地下壕へ行くには・・・

地階の東南にある教育総幹部の一室「地下室入口」から下って行く。まず十数段の急な階段を下り、幅1.5m×全高3m×全長40mの水平の坑道を進むと、踊り場付きの折り返し階段で一気に下り地下壕へ入る。同じく地階南西側の中央無線電信所からも地下壕へ下りられるようだ。

▼横から見た関係図

*

 

  大本営陸軍部地下壕

大本営陸軍部地下壕の建設は防空壕として、大東亜戦争開戦の4ヶ月前の昭和16年8月から開始され、翌17年12月に完成した。壕内には通信施設、烹炊所はもとより、陸軍大臣執務室もつくられている。

 

地下壕は1号館(本館)南側の前庭、地下約14m地点にある。

天井髙4m×幅4.6m×奥行き約52mの縦坑(主坑)が南北に並行して3本。この3本の縦坑(主坑)に対して、長さ48mの横坑が2本が交差している。コンクリートの厚さは高度約7,000mから投下した1トン爆弾にも耐えられるようコンクリ厚は約4mとの話(コンクリート製の重要な地下壕はコンクリ厚約1m)。

 

煙を巧く消すためにわざと蛇行させた換気孔もあり。

地下壕内の排水はさらに下の靖国通りに流す仕組み。

 

工法は不明だが、露天掘りをした大きな空間に、総コンクリート製の筐体をつくり、埋め戻す一般的なやり方と思われる。工事は近衛工兵大隊と民間奉仕団、とのこと。

 

平時は約200名が常駐していたが、空襲時には約3,000名が退避したともいわれる。

出典:GECニュース第9号、1990年5月

 

靖国通り側の3本の地下壕出入口は、戦後の造成工事でかなり露出したとのこと。地下壕見学者に開放しているのは、靖国通り側の3本目(西)の地下壕。

 

靖国通り側、地下壕出入口

出入口①

*

出入口②

*

*

出入口③

灰色の扉は公開に併せてつくったもの。

-

 

深さ約14m、天井髙4m×幅4.6m×奥行き約52mの縦坑(主坑)が南北に並行して3本。この3本の壕に対して、長さ48mの横坑が2本が交差している。コンクリートの厚さは約1m。

 

出入り口から壕に至る通路、特に扉付近の重厚さはなかなかのもの。

「500kg弾に耐え得る堅固な鉄扉」があったが、鉄扉は取り外されている。

-

 

▼靖国神社側の地下壕出入口③から、地下壕本体への坑道。

▼地下壕本体への出入口にも重厚な鉄扉があった(扉は撤去されている)

-

-

 

地下壕全体の面積はテニスコート約5面分(約1,342平方メートル)。ここに陸軍大臣室、通信室、炊事場、受水槽、浴場、便所があり、約200人が生活できる空間だった。

 

一般公開部分は、3本の縦坑のうち左端の1本で、しかも出入り口から縦坑の中央部(つまり縦坑の半分)までしか行けない→下記写真の赤枠内のみ。その3本目中央部には当時の厠があるが基礎と側溝しか残っていない。

→制限が大幅に緩和され、

縦坑②と1号館(本館)側の横坑まで行けるようになりました。

 

見学者はここまでしかいけない(T_T)

 

厠があったところ。

何本かの管が確認できるが、補強し過ぎて何がなんだか・・・・

 

厠は水洗式

海軍は既に主要施設、豊川海軍工廠など水洗化されており、珍しくない。

 

厠から2本目、その奥の1本目をみる

 

写真は南北の壕1本目と交差する東西の壕より、南北の壕2本目との交差点を見る。太い鉄骨が2本が柱として壕を貫き、その先には土台だけになった陸軍大臣室や通信室の跡が少し見える。天井を見ると大規模な空調設備があったようだ。

 

鉄製柱の奥が大臣室、その更に奥が通信室。

基礎のみで仕切りが一切残っていない(往時の写真あり)。

 

炊事場には電気釜があったが、壕内部には電気施設はなくシステムは詳しい記録が残っていないため、不明。立入禁止区域(T_T)

 

換気孔(通気筒)

たれ下がる配線は往時のもの、真下に換気扇があったが撤去されている。

 

換気孔の地上部は・・・

A棟前の儀仗広場の背後の雑木林、往時は前庭(日本庭園)におかれた石灯籠。この石灯籠の真下に換気孔がある。つまり石灯籠はカモフラージュであり、爆風避けも兼ねていた。石灯籠は2台現存とのこと。

 

縦坑(主坑)③、1号館(本館)側をみる

天井には配電、照明器具?とおもわれる鉄片

コンクリート壁にはみっちりと鉄筋が入っている

 

では、退出。

地下壕、ほんの少ししか見られないのが残念!

赤枠の部分のみ、見学可能・・・

*

 

戦後、市ケ谷台の陸軍省施設はGHQに接収され、朝鮮戦争時、米軍はこの地下壕をつかっていた、との話もある。

 

→制限が大幅に緩和され、

縦坑②と1号館(本館)側の横坑まで行けるようになりました=黄色部分

 

  大本営

戦時または事変に際しての最高統帥機関。

明治26年5月に公布された戦時大本営条例によって制度として定められた。設置されたのは次の3回のみ。

日清戦争期(開設:明治27年6月〜明治29年3月)

日露戦争期(開設:明治37年2月〜明治38年12月)

日中戦争~太平洋戦争時(開設:昭和12年11月〜昭和20年11月30日)

当初、陸軍参謀総長が大本営の幕僚長に任ぜられ、参謀総長は陸海軍の作戦を計画・上奏し、勅裁の後、これを陸海軍各指揮官に下令する手続きを行った。明治36年12月28日の条例改正によって、参謀総長が陸軍の幕僚長、海軍軍令部長が海軍の幕僚長に任ぜられ、役職上、対等な立場になった。

 

昭和12年11月18日、戦時大本営条例の廃止が公布され、軍令で大本営令が公示された。同年11月20日、宮中(皇居)に大本営が設置され、昭和20年9月13日まで存続した。同年11月30日、大本営令廃止。

 

大本営は奉勅命令(天皇の命令)を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持つ。なお陸軍は大本営陸軍部命令=大陸命、海軍は大本営海軍部命令=大海令と呼ぶ。

 

大本営陸軍部

市ヶ谷記念館の案内板

『大本営陸軍部は、参謀本部とほぼ同一の組織である大本営陸軍部幕僚(大本営陸軍参謀部及び陸軍副官部)と、兵站総監部や大本営陸軍報道部等からなる大本営陸軍部諸機関より構成されていた。

 

軍政に関する事務を処理するため必要な人員として陸軍省から陸軍大臣、同次官、人事局長、軍務局長など10数名が加わった。昭和12年の設置以降、戦線の拡大にともない逐時機構を拡大し、昭和20年5月には定数が1,792名となっていた』

 

そういえば、満州事変の本で、石原莞爾が「参謀総長は黙ってろ!関東軍司令官は大元帥陛下の直属である!」と言っていた。陸軍も参謀本部・関東軍と、海軍の軍令と連合艦隊司令部みたいな二大派閥だったようで。