河辺飛行場(峯山海軍航空基地)

京都府‎京丹後市‎

 

(海軍)河辺飛行場の周囲には、海軍時代の暗渠、海軍のマーク入りのマンホール、第四格納庫、油脂庫、火薬庫、無蓋掩体壕、地下壕などの遺構がある。特筆すべきは海軍時代の暗渠がほぼ手付かずで残っていること。

 

海軍時代の暗渠とマンホール、その先には第四格納庫

 

海軍時代の暗渠!

 

当時のまま、今も使われている(・∀・)

 

海軍のマンホール(・∀・)

 

 

1941年(昭和16年)秋頃、舞鶴鎮守府隷下の舞鶴海軍航空隊は、ソ連軍の策動と舞鶴軍港の防空に必要な陸上航空基地たる河辺飛行場を造成した。舞鶴鎮守府施設部が担当、当初の滑走区域は南北1,000m×東西500mで芝敷。

 

 

1944年(昭和19年)3月、第二美保海軍航空隊峯山分遣隊が開隊。第2期工事で滑走路を1,500mx80mのアスファルト舗装に変更している。

 

翌年2月11日に第二美保海軍航空隊峯山分遺隊(峯山海軍航空隊)が姫路に転属して、同年同月20日に編成された神風特別攻撃隊飛神隊を3月1日に、峯山海軍航空隊として改編する。同隊は決號作戰(本土決戦)に備えていた。

 

誘導路外の山側は、暗渠ではなく川のまま。護岸工事は当時のままだとか。

 

橋の先から暗渠が始まる

 

 

1945年(昭和20年)7月30日、河辺飛行場一帯に3度に分けて来襲した米軍機55機は、機銃掃射と250キロ爆弾2発とロケット弾6発を投下(峰山空襲)。飛行場には模擬飛行機が置かれており、練習機(九三式中間練習機ほか)の多くは掩体壕・民間の工場・山道などに隠されていたため、練習機の被害は少なかった。

 

終戦後、河辺飛行場(峯山海軍航空基地)は大蔵省に移管されたのち、一旦、進駐軍に接収されるが同年11月には再返還される。翌年(1946年)10月に河辺飛行場跡地は河邉村、新山村に払下げられ開拓が開始された。