海軍大湊通信隊稚内分遣隊の幕別送信所(赤れんが通信所)

北海道稚内市声問村754番地145

 

 

1931年(昭和6年)、対ロシア戦略の一環として無線の傍受を目的に、大湊海軍通信隊稚内派遣隊幕別送信所として新設された(現存はC棟のみ)。

 

 

C棟:監守衛舎

 

 

鉄製トラスはオリジナル

 

<米軍駐留時代、燃料タンクを置いていたらしい>

 

1937年(昭和12年)には、海軍大湊通信隊稚内分遣隊に昇格。樺太を含む北方諸島に駐屯した各海軍施設を対処、とされる。

 

この大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所は、東京中央電信通信隊系列を構成する5陸上通信所(大阪、呉、佐世保、 舞鶴、大湊)のひとつで、東京の大本営海軍部と直結した送受信基地だった。

 

<ボロボロのA棟:1931年(昭和6年)製>

 

<中央部分を修復したB棟:1941年(昭和16年)製>

 

中央部の玄関に向かって右側が事務室っぽい。左側は風呂場など水回り。

 

<B棟は内覧可能>

 

 

B棟。ここいらは事務所っぽい。

 

 

鉄骨は修復時に補強用として導入。オリジナルは木材の骨組み+煉瓦積みのようだ。

 

 

ロシア建築のように、暖炉の熱を全体にまわして暖める方式のようだ。

 

 

燃料は石炭っぽい

 

 

 

 

 

 

B棟中央部。楼閣にのぼる階段は急だ。

 

 

 

 

 

1941年(昭和16年)、レンガ造りの幕別分遣隊庁(AおよびB棟)などが完成する。敷地内には30メートルと50メートルの2本のアンテナが立っていた。

 

現存する3棟の建物の他に、官舎4棟、用水ポンプ室、消防ポンプ室、発電室、車庫、燃料庫、石炭庫、食糧庫が整備されていた。

 

楼閣より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボロボロのA棟は立入不可!

 

<A棟>

 

 

 

街灯?

 

 

 

 

 

A棟の裏手はもっとボロい(T_T)

 

 

 

 

緑色のペンキは米軍が塗ったもの

 

 

<A棟にも暖炉はあるが、部屋の広さより数が足りていなそうなので寒かっただろう>

 

<35メートル送信アンテナがあった場所>

 

 

同年12月2日、山口県岩国市柱島の沖合に停泊していた戦艦長門からの「新高山登レー二○八」電報は有線にて、東京都千代田区霞が関にある東京通信隊に送信され、これを千葉県船橋市の海軍無線電信所船橋送信所が中継して短波と中波で発信された。潜水艦向けには愛知県刈谷市の依佐美送信所から超長波で送信された、とされている。

 

この幕別送信所も中継して、択捉島単冠湾の連合艦隊の機動部隊司令官南雲海軍中将に中継打電された、と言われている。←元軍人の証言。

 

(長崎県佐世保市の針尾送信所の中継説はほぼ否定されている)

 

記録によれば1945年(昭和20年)3月17日、稚内受信所は、硫黄島にいた小笠原兵団長栗林中将より「硫黄島最後の総攻撃(玉砕)および決別」の電報をを傍受する。

 

*

戦後、1947年(昭和22年)10月より、米軍第77師団の将兵約100人が幕別送信所に駐留。1948年(昭和23年)3月にはGHQの指示により海難情報伝達を取り扱う海岸局として 落石、小樽、函館とともに稚内が指定された。

 

米軍第11空挺部隊第1騎兵師団通信業務隊が幕別送信所に駐留した。同時に通信省が同年7月、稚内無線電信局として使用を開始したが、1951年(昭和34年)9月には廃局している。幕別送信所が米軍より日本に返還されたのは1962年(昭和37年)だった。

 

長らく廃墟だったが1983年(昭和58年)、防衛庁が管理。1986年(昭和61年)より自衛隊名寄普通科連隊通信隊の所属になったが、無人管理地となっていた。 

 

2004年(平成16年)に稚内市が国より国有財産管理委託を受け、さらに2006年(平成 18年)には稚内市が建物と土地を取得。

 

現在、一番小さなC棟(69平方メートル)は修理復元完了。中央のB棟(475平方メートル)は望楼を含む棟半分を修復中で、2022年公開する予定。

 

一番大きなA棟(875平方メートル)は自然災害による崩壊が著しく手が付けられない状態で、修復費用の面から、復元は諦めているとのこと。

 

 

 

 

施設の見学希

稚内市役所文化振興グループ(0162・23・6056)への事前予約が必要

(普段はゲートが閉鎖)

 

2020年9月訪問