陸軍沖縄北飛行場(読谷補助飛行場)

沖縄本島

 

 

1943年(昭和18年)、日本陸軍が読谷村に北飛行場を建設。陸軍航空本部経理部の直轄工事として、現地の国場組と請負契約を結んで施工、1944年(昭和19年)4月からは工事を陸軍第19航空地区司令部管轄にして、同年6月に工事は完了した。

 

滑走路は3本(1,500メートルx80mメートル、1,600メートルx70メートル、1,550メートルx90メートル)

 

第8航空師団第25飛行団が沖縄北飛行場に駐留。

飛行第3戦隊(キ48・九九式双発軽爆撃機)20機

飛行第20戦隊(キ43・一式戦闘機)33機

飛行第67戦隊(キ51・九九式襲撃機)13機

 

掩体壕(有蓋・無蓋)や弾薬集積所、兵舎・給油施設等を建設した。

 

1944年(昭和19年)10月十・十空襲で被殆どが喪失する。以後、台湾方面への移駐のための中継地として利用されるにとどまる。疑似(dummy)飛行機(戦闘機)、模擬砲台を置き始めたのもこの頃。

 

 

 

陸軍第32軍司令部による当初の計画では、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、第24師団を沖縄北飛行場(読谷)と沖縄中飛行場(嘉手納)及び海岸防衛に充てていた。

 

だが第9師団は1944年(昭和19年)12月末に台湾防衛のために移駐してしまう。独立混成第44旅団で中頭地区を防衛しようと計画するが、第32軍司令部は「沖縄本島南部(首里戦線前衛陣地以南)に主防御陣地を構築、持久戦術を取る作戦案」を採用した。

 

本島中部に位置する飛行場や伊江島飛行場は主陣地外となり、1945年3月30日に同軍司令部は本島中部の沖縄北飛行場や沖縄中飛行場(嘉手納飛行場)、伊江島飛行場の破壊を命じた。

 

 

高さ4.6メートル×幅約20メートルの蒲鉾型の有蓋掩体壕。

 

 

 

 

翌4月1日、読谷に上陸した米軍は直ちに沖縄北飛行場を占領。同月3日には整備を終え、米軍読谷飛行場(Yontan Airport)として運用を開始。米軍は強力な防空網を形成してしまった。

 

 

<1945年1月撮影>

 

戦後、1947年(昭和22年)からは主に離着陸演習・落下傘訓練などを行う読谷補助飛行場となった。2006年に全返還された。

 

<返還後は酪農農家の牛小屋になっていた>

 

 

 

 

 

 

現存している掩体壕はこの1基しかない。

 

 

 

 

読谷村座喜味2943(付近)