次世界に任せては | よしちゃんのブログ

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佐世保市在住者です。自分の思った事や、日々の出来事に感想を入れたりしながら綴りたいと考えております。
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こんばんは

 

凶悪犯罪を起こした被告の判決において、『刑が軽いのでは?』といった意見を良く目にします。大体、求刑に対して8割程度の量刑となるケースが多いみたいであり、私も報道を見て、“ガッカリな気分”にさせられる事が多々あります。

 

(裁判官におかれては)こうした温情を掛ける事で、“被告人が反省する”とか思われているのでしょうか?或いは、(裁判官)自身やその家族に対する“逆恨みの回避”といった理由なのでしょうか。

 

多分、裁判員の方々も、(プロ裁判官の巧みな誘導により)これまでの判例をベースとした基準で纏められて、無難な判決で納得させられているのかもしれません。

 

何となくですが、(被告に甘い判決を見る度に)「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」で有名な、『悪人正機説』を想起してしまいます。

 

以前は、(何故に悪人なんぞが往生出来るのか?)とかを思ったりしていましたが、“歎異抄”を読んでみれば、“悪人とは煩悩を持つ全ての大衆を指す”そうで、“善人とは阿弥陀の本願を疑い、自力で浄土へ行けると自惚れている者(=偽善者)”となるそうです。

 

『人は元々が悪人であり、その自覚の無い善人(偽善者)ですら往生出来るのだから、悪人である事を自覚した他力信仰者の往生は疑い無し』

 

つまりは、心に煩悩(欲や怒り、恨みや妬みの心)を持つ者は悪人であり、この様な悪人を“阿弥陀仏”は、『煩悩の塊のままに救ってくれる』・・・という教え。

 

※私も嫌いな人に不幸等があった際、(ざまぁ・・・)とかを思った事もあったかもしれません。もっとも私が偽善者である事は、既に読者様には見抜かれているのかもしれませんが・・・。

 

思うに、“阿弥陀仏を本尊とする”関連宗派の信徒数総計こそが、わが国では最大勢力となるのでしょうから、これまで法曹界にも数多くの人材が存在されて、その教義が(多数派として)判決にも影響を与えているのかも?しれません・・・かね。

 

もしもそうであれば、“阿弥陀仏の本願”を信じることで、往生後に極楽浄土に送って貰えるのであれば、凶悪犯に対しては即刻極刑にしてあげて、“仏様に救済を委ねられる”のは如何なものでしょうか。

 

まぁ、これはこれで問題になるのでしょうね。

 

私も、これまでは禅宗に興味を持っていましたが、“歎異抄”を通じて大乗仏教についても興味が湧きましたので、もっと探究してみたいと思いました。

 

それでは