魂(こん)と魄(はく)について | 心を込めてお墓づくり。川崎登戸の町石屋、吉澤石材店です

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お墓について疑問に思われていること、心配なことはありませんか?
どこまで情報発信できるかはわかりませんが、お墓についてや石についてなど、
石屋だからこそわかることや思うことを綴っていきます。

私の祖父は先の戦争で38歳で戦死しました。昭和20年の4月に亡くなっているので、父が10歳の頃。祖母と曾祖母、父の兄弟5人をのこし、さぞ無念であったことでしょう。


フィリピンのミンダナオ島というところでの戦死ということで、ついに遺骨は戻っては来なかったそうです。


写真は2003年に父がフィリピン遺骨収集(慰霊)の旅に参加した時のもの。祖父が戦死した地はゲリラが実効支配している土地で近づくことが出来なかったため、遠く海を挟んだ地から慰霊祭を行ったそうです。




遺骨を収集することはかなわなかったものの、父にとっては自分の父親(祖父)が亡くなった地の空気に触れ、持参した手紙を読み上げて、どれだけ気持ちが救われたことか…。積年の胸のつかえが下りた思いだったろうと想像します。


話は変わりますが、昨年多くの登山客が巻き込まれる木曽御岳山の噴火がありました。先日被災者の方の捜索が再開され、一名の方を発見というニュースが流れました。すべての遭難された方々が発見され、ご家族のもとに戻れる日が一日も早く訪れることを願ってやみません。


ここで思うのは、こうした災害が起きるたびに自衛隊や消防・警察などの関係者の方々が危険を冒してまで懸命に捜索する意味…。それは亡くなっている可能性が限りなく強くとも、探し出して家族のもとへ帰してあげたい、そしてご家族も戻ってきてほしいという思いがあるからに他ならないと推察します。


そうしたことから考えると(当たり前のことですが)、やはりご遺体は大切なものでありますし、亡くなって久しい戦没者の方々の遺骨も同じことだと思います。


よく魂魄(こんぱく)といいますが、両の文字ともにたましいという意味です。そのうち、魂(こん)は一言でいえば精神、魄(はく)は肉体で、両方が合わさって人間は生きているという状態なわけです。


もし亡くなれば魂は気体のように天にのぼり、魄は白骨となって地にかえるということになります。(道教の思想であり、日本ですべてがこれに合致するというわけではありませんが、仏教が中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わってきたように、こうした影響は少なからず受けているはずです。)


教えていただいたことですが、わが国ではその天に昇った魂がおまいりをする時に依るところがお位牌であり、地にかえる魄をお祀りするところがお墓ということです。また、お墓まいりの時には魂は石塔の棹石が依りしろになります。


色々な考えの方がいると思いますので、私の立場からああしろこうしろとか、散骨等についての是非を論じたいわけではありません。でもこんな観点からも魄をお納めするお墓というものの存在がいかに大切なものかをお話ししてみたいと思いました。


お盆が近いからかもしれません。


また、よろしくお願いします。