就職が決まってから時折、孤独を感じるようになった。
とはいえ、それはおそらく一般的に想像されるであろう孤独とはまったく種類の異なるもので、自分も初めて感じる気持ちだったから、しばらくの間処理に困った。いや、多分いまでもそれは変わらない。
将来の話を友だちとするとき、孤独は特に大きくなる。
取り合えずどこでもいいからと就職先を決めたひと。
安定という言葉を掘り下げもしないで、目先の安心のために公務員を選んだひと。
いまだ進路に対して悩むことすらしないひと。
この極端な3つに当てはまらないにしても、夢に背を向けるという大きなくくりにすれば、多くの場合結果は同じだ。「目的=就職」の人がほとんどで、その先までを思い描けている人は寂しくなるほど少ない。
どうしてだよ。と叫びたくなる自分がいる。
それで本当に幸せになれるの? 憤るのとは違って、周りの友だちのことを大切にしたいと思うから、そんな安易な人生の決め方をしていいのかと、問いかけたくなる。これは焦燥だと思う。何とか伝える方法はないかともどかしくて、すごく焦る。そんな選び方をして後悔したら、這い上がるのは今人生と向き合うよりもはるかに苦しいのに。
一方で、人の価値観も認めてあげなきゃダメだよ、と諭す自分もいる。
分かってる。幸せなんて人それぞれなんだから。
間違いではないと思う。でも、こんな安っぽい言葉に簡単にすがるなよと腹立たしくもなる。「幸せは人それぞれ」でみんなが幸せになれたら誰も苦労しないじゃないか。価値観に正解はないのだとしても、きっと、残念ながら、その精度はある。
人に依りけり、はここにきて初めて使っていい言葉じゃないのか。家族や立場やもろもろの事情で、きっと確かに幸せの形は少しずつ違って、これからも変わっていくものではあるだろうけど、今の時点で自分の幸福観や夢や目標と向き合えないのなら、そんな言葉は一瞬で形骸化してしまう。
自分は、人生100回やったら、100回とも満点を目指したい。
サイコロ振って高い目が出た方が幸せ、というのなら、面を削るなりして少しでも6が出る確率を上げたい。
自意識過剰であるならば、むしろそうであってほしい。
だけど、自分の周りの多くの人たちが、幸せを決めるサイをただ投げているような気がして、可能性というあやふやなものに体重をすべて乗せているような気がして、それが堪らなく怖い。
たまたま、幸せになることはあるだろうと思う。
でも、拠りどころになる自分なりの価値観がない状態では、確率に背を向けられたときのリスクはあまりに大きい。人生に限りがある以上、そのリスクは後になればなるほど取り返しのつかないものになりかねない。
それぞれが、それぞれなりに向き合っている。
それも確かに真だろう。だけど……。甘ったるい言葉で許容することは、見捨てていることと変わらないんじゃないかと思う。妥協なんだと思う。
(長いよー(;ω;) 取り合えず記事を分けます)
とはいえ、それはおそらく一般的に想像されるであろう孤独とはまったく種類の異なるもので、自分も初めて感じる気持ちだったから、しばらくの間処理に困った。いや、多分いまでもそれは変わらない。
将来の話を友だちとするとき、孤独は特に大きくなる。
取り合えずどこでもいいからと就職先を決めたひと。
安定という言葉を掘り下げもしないで、目先の安心のために公務員を選んだひと。
いまだ進路に対して悩むことすらしないひと。
この極端な3つに当てはまらないにしても、夢に背を向けるという大きなくくりにすれば、多くの場合結果は同じだ。「目的=就職」の人がほとんどで、その先までを思い描けている人は寂しくなるほど少ない。
どうしてだよ。と叫びたくなる自分がいる。
それで本当に幸せになれるの? 憤るのとは違って、周りの友だちのことを大切にしたいと思うから、そんな安易な人生の決め方をしていいのかと、問いかけたくなる。これは焦燥だと思う。何とか伝える方法はないかともどかしくて、すごく焦る。そんな選び方をして後悔したら、這い上がるのは今人生と向き合うよりもはるかに苦しいのに。
一方で、人の価値観も認めてあげなきゃダメだよ、と諭す自分もいる。
分かってる。幸せなんて人それぞれなんだから。
間違いではないと思う。でも、こんな安っぽい言葉に簡単にすがるなよと腹立たしくもなる。「幸せは人それぞれ」でみんなが幸せになれたら誰も苦労しないじゃないか。価値観に正解はないのだとしても、きっと、残念ながら、その精度はある。
人に依りけり、はここにきて初めて使っていい言葉じゃないのか。家族や立場やもろもろの事情で、きっと確かに幸せの形は少しずつ違って、これからも変わっていくものではあるだろうけど、今の時点で自分の幸福観や夢や目標と向き合えないのなら、そんな言葉は一瞬で形骸化してしまう。
自分は、人生100回やったら、100回とも満点を目指したい。
サイコロ振って高い目が出た方が幸せ、というのなら、面を削るなりして少しでも6が出る確率を上げたい。
自意識過剰であるならば、むしろそうであってほしい。
だけど、自分の周りの多くの人たちが、幸せを決めるサイをただ投げているような気がして、可能性というあやふやなものに体重をすべて乗せているような気がして、それが堪らなく怖い。
たまたま、幸せになることはあるだろうと思う。
でも、拠りどころになる自分なりの価値観がない状態では、確率に背を向けられたときのリスクはあまりに大きい。人生に限りがある以上、そのリスクは後になればなるほど取り返しのつかないものになりかねない。
それぞれが、それぞれなりに向き合っている。
それも確かに真だろう。だけど……。甘ったるい言葉で許容することは、見捨てていることと変わらないんじゃないかと思う。妥協なんだと思う。
(長いよー(;ω;) 取り合えず記事を分けます)