自分は、自分なりの価値観をもう持っていると思う。
100回人生やったら、100回すべてで幸せになれる自信がある。
もちろん少しずつ修正を加えていくことはあるにしても、幸せの方程式のようなものは自分の中に確かにある。
なんのことはない。
ひとつ、自分のやりたいことに正直になること。
ふたつ、人のために生きること。
ざっくり言ってしまえばこれだけのこと。でも、この価値観を実感に基づく確信の上に立たせるのが、思えばなかなかに難儀だった。
ひとつ目の時点で、自分の周りからほとんど人はいなくなる。
ふたつ目になると、徹底的にひとりぼっちな気になってくる。
もちろんそうじゃないとは分かっているし、まだ行動として明確に示せていない時点で何を偉そうに、と鼻で笑いたくもなるのだけれど、笑えない。
地元の友だちに囲まれていたころは、このみんなとなら世の中のどんな課題であっても解決していけるんじゃないかと、確信めいたものを感じていた。
大学に出る前などことあるごとに、あのころの“人運”の奇跡的なことに驚嘆し、神様が仕組んだ出来レースではないかと思うほどの「いい人」の密度の濃さを、それがあまりに奇跡的であるがゆえに他の人にうまく伝えられずもどかしかった。
地元の友だちとは今会ってもよくその話をする。あの学年、すごかったよね、と。その想いは今も変わらない。
そして、だからこそとても寂しい気持ちになるのだろう。
ずっと少ないことに気が付いた。同じでなくていい。ただ生き方の方向性として、似たような視点を少しでも含んでいてくれたら。でも、そんな人生観を持った人など、想像よりもずっと少ないのだと気が付いた。
みんなとならできる、はもう頼れない。
だったらいいや、と自分の生き方を変える気など露ほどもない。
でも、ただ仲間だと思える人が欲しいのだと思う。理想を求めれば求めるほど、きっと同じように生きる人は少なくなっていく。自分なんかより、もっともっと先の方で戦っている人は、いったいどれだけ孤独だろう?
近くにいなくてもいい。友だちでなくてもいい。同じような価値観を持って生きている人が、掠めているだけでもいいから同じ方向性を持って歩んでいる人が、どこかにいることを分かっていたい。
仲間を渇望している、そんな状態。
だからだと思う。
「この人は仲間だ!」と思える人がいたとき、すごく嬉しくなる。ちょっとした勇気と偶然が重なれば、お互いに。
そして、そういう人間に敏感になる。あの人はそうかも、と話を聞きたくなる。
やっと、今日。
今日は、明日に迫った卒業研究発表会のため、ポスターの印刷をしていた。
同じ研究室の友人で、前から勝手に「あの人はそうかも」と目をつけていた人がいる。
前に、今度話そうと声はかけておいたのだけれど、今日ふたりで昼を食べることになり、それが実現した。
学食で、何度もハイタッチをした。
ここまでピタリと考え方がはまるか、と驚嘆するほど、一つひとつの言葉がしっくりときた。
コンテクストのない単語のみを切り取っても、「それ分かる!」とお互いに声を上げた。
孤独。人のため。就職。手段。目的。死ぬことから、逆算する。
孤独を知らなければ分かり得なかった、素敵な時間だった。
もちろん、誤差はある。
だけど、それは素敵な違いなのではないかと思う。価値観の違い。この言葉が、ここでやっと違和感なく使える。
繰り返すけれど、全然生き方が違うからといって嫌いにはならない。今でも地元の友だちは変え難いほどに大好きだし、これから会う人達についてもそうだと思う。
でも、今は同じような孤独を共有できる人たちと会いたい。そんな人たちが集まるフィールドにいたい。自分にとっての「社会に出る」ということは、つまり孤独を知ることなのかもしれない。孤独を知って、仲間を見つける。まずは、そこからなのかも。
小さい頃はちょっとしたことで純粋にはしゃげた心の近さは、大人になるとどうしても失われてしまう。それは仕方のないことだろうと思う。
わずかなきっかけ、言い換えるならば共有で越えられてしまうほど、幼いころの人見知りの壁なんてほとんどの場合低くて、やわらかく、数も少ない。子どもはいとも簡単に、掘るなり、穴をあけるなりしてその壁をこえる。
大人じゃあそうはいかない。
ちょっとしたことでは目新しさはなく、でも共有していますよと嘘でも示したいがために感情を偽って表情を作る。それが分かっているから、相手が同じように笑っても、共有できた! という感覚などない。ことが多い。
だから、嘘偽りなく「共有できた!」と思えたことを、もっと大切にしてかなきゃいけないんだな、と思った。その人を、時間を、もっと大事にしなきゃいけない。
心から嬉しいと思えた「共有」を大切に。
とくとくと生まれる成長を、一歩踏み出すごとに実感できている今日この頃。
またひとつ、大事なことを吸収できた。
100回人生やったら、100回すべてで幸せになれる自信がある。
もちろん少しずつ修正を加えていくことはあるにしても、幸せの方程式のようなものは自分の中に確かにある。
なんのことはない。
ひとつ、自分のやりたいことに正直になること。
ふたつ、人のために生きること。
ざっくり言ってしまえばこれだけのこと。でも、この価値観を実感に基づく確信の上に立たせるのが、思えばなかなかに難儀だった。
ひとつ目の時点で、自分の周りからほとんど人はいなくなる。
ふたつ目になると、徹底的にひとりぼっちな気になってくる。
もちろんそうじゃないとは分かっているし、まだ行動として明確に示せていない時点で何を偉そうに、と鼻で笑いたくもなるのだけれど、笑えない。
地元の友だちに囲まれていたころは、このみんなとなら世の中のどんな課題であっても解決していけるんじゃないかと、確信めいたものを感じていた。
大学に出る前などことあるごとに、あのころの“人運”の奇跡的なことに驚嘆し、神様が仕組んだ出来レースではないかと思うほどの「いい人」の密度の濃さを、それがあまりに奇跡的であるがゆえに他の人にうまく伝えられずもどかしかった。
地元の友だちとは今会ってもよくその話をする。あの学年、すごかったよね、と。その想いは今も変わらない。
そして、だからこそとても寂しい気持ちになるのだろう。
ずっと少ないことに気が付いた。同じでなくていい。ただ生き方の方向性として、似たような視点を少しでも含んでいてくれたら。でも、そんな人生観を持った人など、想像よりもずっと少ないのだと気が付いた。
みんなとならできる、はもう頼れない。
だったらいいや、と自分の生き方を変える気など露ほどもない。
でも、ただ仲間だと思える人が欲しいのだと思う。理想を求めれば求めるほど、きっと同じように生きる人は少なくなっていく。自分なんかより、もっともっと先の方で戦っている人は、いったいどれだけ孤独だろう?
近くにいなくてもいい。友だちでなくてもいい。同じような価値観を持って生きている人が、掠めているだけでもいいから同じ方向性を持って歩んでいる人が、どこかにいることを分かっていたい。
仲間を渇望している、そんな状態。
だからだと思う。
「この人は仲間だ!」と思える人がいたとき、すごく嬉しくなる。ちょっとした勇気と偶然が重なれば、お互いに。
そして、そういう人間に敏感になる。あの人はそうかも、と話を聞きたくなる。
やっと、今日。
今日は、明日に迫った卒業研究発表会のため、ポスターの印刷をしていた。
同じ研究室の友人で、前から勝手に「あの人はそうかも」と目をつけていた人がいる。
前に、今度話そうと声はかけておいたのだけれど、今日ふたりで昼を食べることになり、それが実現した。
学食で、何度もハイタッチをした。
ここまでピタリと考え方がはまるか、と驚嘆するほど、一つひとつの言葉がしっくりときた。
コンテクストのない単語のみを切り取っても、「それ分かる!」とお互いに声を上げた。
孤独。人のため。就職。手段。目的。死ぬことから、逆算する。
孤独を知らなければ分かり得なかった、素敵な時間だった。
もちろん、誤差はある。
だけど、それは素敵な違いなのではないかと思う。価値観の違い。この言葉が、ここでやっと違和感なく使える。
繰り返すけれど、全然生き方が違うからといって嫌いにはならない。今でも地元の友だちは変え難いほどに大好きだし、これから会う人達についてもそうだと思う。
でも、今は同じような孤独を共有できる人たちと会いたい。そんな人たちが集まるフィールドにいたい。自分にとっての「社会に出る」ということは、つまり孤独を知ることなのかもしれない。孤独を知って、仲間を見つける。まずは、そこからなのかも。
小さい頃はちょっとしたことで純粋にはしゃげた心の近さは、大人になるとどうしても失われてしまう。それは仕方のないことだろうと思う。
わずかなきっかけ、言い換えるならば共有で越えられてしまうほど、幼いころの人見知りの壁なんてほとんどの場合低くて、やわらかく、数も少ない。子どもはいとも簡単に、掘るなり、穴をあけるなりしてその壁をこえる。
大人じゃあそうはいかない。
ちょっとしたことでは目新しさはなく、でも共有していますよと嘘でも示したいがために感情を偽って表情を作る。それが分かっているから、相手が同じように笑っても、共有できた! という感覚などない。ことが多い。
だから、嘘偽りなく「共有できた!」と思えたことを、もっと大切にしてかなきゃいけないんだな、と思った。その人を、時間を、もっと大事にしなきゃいけない。
心から嬉しいと思えた「共有」を大切に。
とくとくと生まれる成長を、一歩踏み出すごとに実感できている今日この頃。
またひとつ、大事なことを吸収できた。