原題:藤岡軍曹と竜岡門(2007年10月21日 05:23 )
俺は亡くなった祖父のことをあんまり覚えていない。
ただひとつ、痩せている祖父の膝の中の居心地が悪かったのは覚えている。
祖父は自分が5歳のときに亡くなった。
家族が言うには、どこへ行くにも自分を連れて行って、ニコニコしながら、必ず膝の上に座らせていたそうだ。
そんな俺が、いつも思い浮かぶ光景が1つだけあって、昔住んでたボロボロの葛飾の家の縁側だ。
その家の縁側で祖父が爪を切っていて、俺は隣で並んで、じいさんの飛ばす爪が描く放物線を眺めながら、なぜか足の指の間のゴミをほじっている(汚くてごめんなさい・・・)。
淡い春の光の中で、横でじいちゃんが笑いながら、何か話しかけてるんだけど、もう思い出せない。
なんだったんだろう?
藤岡 人喜は軍曹だった。
太平洋戦争のとき、満州に行った。
小学校しか出ていないけど、軍曹になった。
満州では機関銃部隊の隊長だった。よく分からないけど、それって相当の出世らしい。
うちのじいちゃんの仕事は、匍匐前進する仲間の後ろで一斉射撃の号令を出すことだった。
戦後ずっと、じいちゃんは悔やんでいた。
自分のかける号令のせいで、後ろから仲間を撃ち殺してしまったこと。
修羅場の中での誤射だから、しょうがないんだろうけど、晩年まで心を痛めていたそうだ。
祖母が死んだ後、引越しのために葛飾のボロ家を整理していたら、今にも崩れ落ちそうなボロボロの大福帳が出てきた。
表紙には「藤岡軍曹満州備忘録」と毛筆の達筆で記してある。
中を開いてみると、疎開していた見ず知らずの学童や親戚との手紙が几帳面にも、1枚1枚黒い紐で、ファイルされていた。
この70年モノのボロボロは、デリカシー皆無の母によって、祖母の日記と一緒に、一時、粗大ゴミの山に捨てられそうになったが、俺が間一髪止めた。
確かにどっから見ても、ゴミにしか見えない代物だったが、無口でいつも穏やかだけど、男気溢れていた祖父の魂が宿ってそうだったから。
祖母が最高に幸せだった「1986年の日記」と祖父の「藤岡軍曹満州備忘録」の2点セットは今でも俺の宝物だ。
軍曹は、今TVで流行ってる真っ黒の筋肉ムキムキ鬼軍曹とは違い、背がスラッと高く、ハンサムで身なりのキッチリした人で、死んだ後も皆に慕われるような人徳のある人だった。
祖父は肺気腫(COPD:chronic obstructive pulmonary disease; 慢性閉塞性肺疾患)で死んだ。
肺気腫とは、酸素交換ができなくなる病気で、実際に息を止めてやってみれば、その苦しさがわかるが、「息を吸えても、吐くことができない」という現在も治すことのできない地獄のような病気だ。
重症になれば、少し動くだけでも息が続かない。
葛飾の家には、大きな酸素ボンベがいっぱいあった。
最期は、父曰く、酸素交換率(SpO2のこと?)がほとんど0になってもずっと生きていたらしく、死んだときは不思議すぎて、各科の医者から病理解剖を依頼された。
じいちゃんに、最後に会ったのは、亡くなる数日前だった。
幼馴染じみ&初恋の相手(!?)由樹子ちゃん(この子ももやもや病で亡くなる)と病室にお見舞いに行った。
ベッドの上でいつも通り、ニコニコしていたから、まさか死ぬなんて思ってなかった。
だから、そんなことより、じいちゃんに貰った100円で「カプリコ」を買うべきか、「ジューC」を買うべきかの方が、俺にとっては最優先事項であった。
それから間もなく、祖父は死んだ。
その時、「カプリコ」派の孫は小学校お受験のための塾の帰り道だった。
青戸駅の公衆電話で祖父の訃報を知った。
「あ~。じいちゃん、死んだのか~。じゃ、明日の新聞に載るね!!」と大ハシャギした。
載るわけない。載るわけないだろ。
アホだった。アホすぎた。ごめんね。おじいちゃん。
その後、このアホ孫は、生まれて初めて経験するお葬式の際にテンションが上がり過ぎ、楽しい気分になるが、火葬場で「ガコーン!!」という大きな音とともに、窯から出てきたじいちゃんの骸骨を見て、恐怖の余り、号泣しながらチビルことになる。
東大には、竜岡門という門がある。
竜岡門だけは閉まらない。閉められない。
なぜなら、この道は東大病院に続いている。救急車が入ってくるからだ。
4年前、大学院から田舎の某大学医学部に移ったとき、研究室の俺の荷物を引き払うために、父が東大の竜岡門まで、車で迎えに来てくれた。
そこで、あることが判明した。
40年前、父は仕事帰りに毎週、進行した末期COPDの祖父を治療のために、この東大病院の呼吸器内科の外来まで、車で送っていた。
祖父は毎回「俺はここで、いいんだ。おまえは疲れてるだろうから、早く帰れ。」と、この竜岡門のたもとで車を降りていたそうだ。
しかし、実は、この竜岡門から病院入口までは、緩やかな坂道で数百メートル近くあるのだ。
竜岡門から先に入ったことがなかった、いや、入ることをさせてもらえなかった父は、40年経った、この時、初めてその事実を知った。
「親父、きっと、苦しかったんだろうに・・・」父が運転席でうつむきながら、言葉を詰まらせた。
40年もの長い時間が経って、父と子が、お互いを思いやっていたことが分かった瞬間だった。
自分で言うのも変だけど、俺はこのお家に流れる血のこういう優しい処が大好きだ。
あれから、40年経った。
縁側で真っ黒な足をほじくっていた軍曹の孫は、竜岡門のすぐ脇のボロボロの赤レンガの建物にいた。
東大病院研修医採用試験の面接会場だ。
40年前にもあったであろう、この赤レンガの建物の前を、病院へ向かって、山高帽をかぶった老年の紳士が背筋を伸ばして歩いていく姿が目蓋の裏に浮かんだ。
来年から、俺はここで働きます。