死の探究 死への先駆的決意性 | 大自由の翼のブログ

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昨夜はかなり久しぶりに令和哲学カフェを視聴しました。令和哲学カフェは毎週金曜日の21:00〜22:00で開催されています。



上のYouTube動画は期限付きなので、1週間経過したら、視聴できなくなるかもです。


昨夜のカフェは仲間が詳しく以下にブログを書いてくれています。


昨夜はハイデッカーを取り上げました。

ハイデッカーは、実存主義の哲学者で有名ですが、ハイデッカー自身は実存主義者と言われるのは嫌っていたようです。


カント、ニーチェの哲学に学び、フッサールを師に持つハイデッカーですが、フッサールが意識に着目した哲学者なら、ハイデッカーはもっと存在に着目しなければいけないと主張した哲学者でした。

そのことでフッサールとは袂を分かちましたが、ハイデッカーは存在からアプローチしたというだけで、目指すところはフッサールとそんなに変わらないかなという感じ。


ハイデッカーは、人間を現存在と規定して、他の存在とは違い、存在とは何か?を問うのが現存在だと言っていたようです。

また人間は世界内存在に投げ込まれたという表現をしていたらもしています。ここはちょっと私も理解できていない感じ。


存在とは何か?の問題意識があるので、当然そこには生死とは何か?という問いが出てきますが、ハイデッカーも死とは何か?を追求しています。


死というと、一般的には怖さや不安、恐怖を感じると思いますが、ハイデッカーは死があるから人間、現存在の有限性に尊さや価値が生まれると解いていて、死を決して否定的には見ていませんでした。むしろ死を受け入れることで、生が輝くと解いていたように見えます。


そんな話の流れで、生死が当たり前の世界と生死がないのが当たり前の世界を一つに統合するために必要な要素とは?について深めました。


有無の定義の再規定、止まらない動きを取り入れる、ビールとビールの泡の関係性が分かる、生死を生み出す一点、生から死を見るのではなく、死から生を見ることなどの意見が出ました。


5階建てのビルディングがどういう結果になったか失念しましたが、死から生を見た時に、有無の定義が変化して、実はそれは止まらない動きから生まれていて、その中で生死を生み出す一点が何かが分かり、ビールとビールの泡の関係性が見えるのかなと感じました。


止まらない動きが認識技術でいう源泉動き、止まる動きが脳感覚の世界で生死が実在する世界と整理ができると感じました。


出演者の一人が言っていましたが、ハイデッカーの死に対する主張は、武士道、SAMURA精神的に共通するものがあると感じました。

死への先駆的決意性は、日本の明治維新から1945年8月15日までの日本のアイデンティティに共通するものがあると感じました。


ただ、ハイデッカーは、死に対する定義が生命の死に止まってしまったかなと。令和哲学で言えば、映像スクリーンが生、バックスクリーンが死のイメージだったかなと。なので、映像スクリーンとバックスクリーンの外、有無有無を生み出す仕組み、完全死まではアプローチできなかった感じがしました。

そもそも存在とは何か?の質問から出発しているため、動きが存在させるというイメージがかなりしにくいのもあると感じました。


話を通じて、死に対するイメージ変化は重要だなと感じました。