(229)歴史の大海原を行く 吉村昭
ペリーの来航については、かならず教科書とか歴史書に、「幕府は大慌てに慌て」と書いてある。最近ではよく知られるようになりましたが、幕府には長崎出島のオランダ商館からいつも国際情勢が入っていました。それを翻訳して江戸に急送したのが「オランダ風説書」です。ペリー来航の一年前の「阿蘭陀風説書」の写しを私は持っていますが、そこには、「アメリカの国会で、来年、軍艦四隻を日本に派遣すると決議した、大将はペリーだ」と書いてある。一年前から知っていたのですから「ああ、来たか?」ほどのことでした。
そういったことが歴史小説を書いているうちに調べると続々と出てくる。定説をくつがえすのも、私たち歴史小説作家の勤めでもあるわけですね。
それから今度は歴史小説を書く上で当時の風俗を知っておく必要がある。たとえば主人公が旅に出るとき、なにを履いていったらいいか、どんな着物をきていったか、どういった場所を歩くか、そのようなことから始めないとなりません。
私の家内(作家・津村節子:芥川賞作家)はNHKの大河ドラマと言うのが好きで、よく見ているのです。ところが、私にはアラばかりが見える。例えば馬を引いている馬子が、提灯を手にしながら歩いている。あのようなことはありえません。当時の菜種油(ローソク)と言うのは高価ですから、提灯を手に歩いているのは格の高い武家か、それともかなりの商人ですね。川柳に「黒犬を提灯にする雪の道」というのがある。雪の道は白いですね。そこを、まえに黒い犬が歩いている。それを提灯代わりにして歩く。それほど江戸の闇は濃かったのです。
『鬼平犯科帳』というのがありますね。池波正太郎さんが書いた長谷川平蔵というのは、実在の人物です。テレビはなかなかうまくできている。女房は見ているし私も見ていたのですが、やはり気になることがある。『鬼平犯科帳』の鬼兵の、あれは旗本ですから、そこの門のところに「火付盗賊改」と書いてある。当時は表札と言うのはなかったのです。たとえば、「薩摩藩下屋敷」とか、そのような看板は下がっていないのです。あるのは商店だけで、一般人のうちにも表札と言うのはなかった。
ですから、そのようなものをみていて、これは言うか言うまいか迷いながら、やはり女房に言う。「当時は、表札はないんだ」と。すると女房は女房で、「だって火付盗賊改って書いてなければ分からないじゃないですか?」「いや、それはそうだけど・・・」、難しいのです。それで「あんたはあまりいろいろなことを言うから、向こうへ行って野球でも見ていてください」なんていわれるのですけれども。
幕府倒壊の発端、生麦事件
生麦事件というのは、幕末に薩摩の藩主のお父さん、島津久光という人が江戸へ来るのです、天皇の命令で。それで、帰っていくときに生麦村、今は横浜市鶴見区生麦町になっていますけれど、そこへかかったときに、向こうから横浜に住んでいたイギリス人の、男が二人、女が一人、それが馬で来るのですね。川崎の大師にお参りに行く。そのときに接触してしまう。それでリチャードソンと言う男が斬り殺される。(行列の前を横切ったとよく書いてありますが、一本道ですから横切れない、だから接触です。)イギリスは怒りますよね、賠償金をよこせとか、下手人を出せとか。
しかし、薩摩はことごとく拒絶したので、イギリスは軍艦七隻を鹿児島へ派遣する。そこで戦いがあり、これを薩英戦争というのですが、ところが、その後、薩摩はイギリスと和解しまして、そして外国から新鋭の兵器を輸入して、それが幕府倒壊に結びついたのです。ですから、この生麦事件というのは非常に重要な事件なのです。このことを私は書いたのです。
(中略)意外なことに生麦事件を調べている人がいないのです。一人も。したがって、研究書も出ていない。私は実は非常に嬉しかった。土足で宝の山に入っていくような快感なのです。
最初に大名行列。ここでつまずいたのです。参考書と言うか、そういうものが一冊もないので実地に調べた。大名の中で最も石高が多いのが加賀百万石ですから、金沢へ行きました。それから薩摩へも。いろいろなところへいって調べた。そうしましたら、驚いたことに規模が大きいのですね。加賀藩では大名行列は七千人、鹿児島は三千人なのです。
大名行列と言うのは規模を大きくすると、それだけ大名の力が減ってしまって衰微させると言う、そのような幕府の政策だなどといわれていますが、そのようなことはないのです。その当時は、大名がこの機会に全国に自分の藩の威容を示そうと思って、堂々と行列を組んで歩いたのです。
なぜ七千人、三千人と言う規模なのか。大名は宿場に入ると、本陣というところに泊まるのですが、大名は本陣で出した料理を一切食べない。毒殺を恐れたのでしょうね。ですから、料理を作らなければならないので、調理人、それから鍋、釜、包丁、七輪、漬物の桶まで持っていっているのです。漬物の重石(おもし)も持っています。途中で瓜とかナスなどを買いまして、漬けるのですね。それから、お医者さんもがもちろんついていきます。それから髪結いさん、馬も行きますから馬医者。大名が途中で用を足すための携帯用便器も持っていく。用を足すときに、周りの人に見られてはまずいからというので、膜を張り、それも持ってゆく。そのようなことから規模が大きくなるんですね。
和解に出た島津久光
この大名行列は、そのまま京都を経て鹿児島へ帰ってしまいます。盛んにイギリスのほうでは賠償金をよこせ、下手人を出せという。薩摩はそれを全部拒否していましたので、イギリスが攻めてくるだろうと考えていました。
その予測どおり、イギリスは七隻の軍艦を率いて鹿児島湾にいったわけなのです。鹿児島湾でも待っていましたから、大砲での激しい砲撃戦となりまして、鹿児島の町の大半が焼かれました。ただし、イギリスの軍艦の、いまでいえば連合艦隊司令長官のような人が戦死したり、その次の人も戦死したり、私は冷静に考えてこの戦いは、薩摩が五・五、イギリスが四・五、鹿児島のかろうじて勝ちだという、そのような判定をしたのです。当時は横浜にイギリスの新聞記者がいっぱい駐在していまして、生麦事件についての記事を本国に送っていた。
私も横浜に行ってそれを見ました。そうしますとイギリスの国会では、これは負けた、日本に負けたと。イギリス側はショックだったのです。
それで大名行列のかごに乗っていた島津久光、この人が鹿児島藩士たちを一堂に集めて、「この戦いは勝ったのか負けたのか?」といいましたら、みんな「勝った」というのですけれども、その中で小松帯刀(こまつ・たてわき)という家老がいる。この人が「負けました」というのですね。なぜだと。兵器が違っている。イギリスのほうはアームストロング砲という大砲です。射程距離が三千五百メートル。ところが日本のほうは青銅砲といいまして、銅で造った大砲で八百メートル。それからさらに銃ですね。日本側は火縄銃。ところが向こうはライフルで連射式のやつだった。だから、鹿児島は負けました、そのようなことを小松帯刀が言ったのです。
この小松帯刀と言う人は、明治になって長い間生きていれば大変な人になっただろう、第一級の人物だった。この小松帯刀の言葉によって、それではイギリスと和解しようと。そして、イギリスから鉄砲、大砲とか銃とか。そのようなものを積極的に輸入しよう。もうこれは島津久光と言う人も偉いですね。それでイギリス側と交渉しましたらオーケーということになって、イギリス
から大砲とか銃が輸入されたのです。
武器で結びついた薩摩と長州
それで外国も怒ってしまって、アメリカ、オランダ、フランス、それからイギリスなど、連合艦隊が下関に行ったんです。そして、長州藩と戦闘をしましたが、長州藩が惨敗、大砲や青銅砲などもずいぶん持っていかれてしまって、今アメリカなどに展示されたりしていますけれど、そのようにして長州もまったく負けた。
そのときに井上馨(かおる)と桂小五郎が長崎に行きまして、グラバーというイギリスの商人と交渉して、「銃と大砲を輸入したいんだ、頼む!」と言いましたが、その頃は長州征伐というのがありまして、幕府は長州だけには売るなと、外国商人に圧力をかけていたのです。それで、だれも長州藩の要求にはこたえなかった。
桂と井上は、たまたま長崎に来ていた小松帯刀のところに行って何とかして欲しいと。小松帯刀は快諾し、「分かった、薩摩の名義を貸しましょう」と。それで、「どんどん輸入なさい」と。二人は大喜びして、そして長州は外国の鉄砲、それから軍艦まで購入したのです。
その、薩摩が斡旋したと言うことを、長州の藩主とその息子さんがお礼状を送っている、鹿児島に。「ともかく斡旋していただいてありがたい」と。「薩摩藩と長州藩で幕府を倒すことに全力を挙げましょう」。そのような礼状が行っているのです。つまり薩摩と長州が結びついたのです。
薩長同盟というと、坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが、坂本龍馬は土佐藩の藩士ではなく、郷士です。坂本龍馬が両方を仲介して薩長盟約を結ばせたといわれていますけど、そのようなことは史実にないのです。
それで、この薩摩・長州が新鋭銃、新鋭の大砲、これを輸入して、そして幕府と対抗する。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍は一万五千人、薩摩のほうは四、五千人なのですね。それで圧勝してしまったのです。なぜかと言うと武器なのです。武器の勝利なのです。
ですから今お話したように、幕府が倒れた、その発端になったというのがこの生麦事件。それによって幕府と言うのは倒壊し、明治維新が成立したのです。
引用図書:『ひとり旅』吉村昭
著・津村節子編 文藝春秋社 2007年
