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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(264)心に沁みる辞世いくつか

 


 皇女 和宮(こうじょ・かずのみや:1846~1877) (『清寛院宮御詠集』)

 

 空蝉(うつせみ)の 唐織衣(からおりころも)何かはせん綾(あや)も錦(にしき)も 君ありてこそ

 現代語訳 あなたのいない蝉の抜け殻のようになっている私に、美しい唐織の着物なんて何になるでしょうか。華やかな綾や錦の織物も、あなたが生きていてこそ欲しいのです。

 皇女和宮は、第百二十一代孝明天皇の妹。幕末の公武合体政策の一環として、第十四代徳川家茂(いえもち)に降嫁した。夫の家茂の急死後、「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と称した。夫の徳川家茂が第二次長州征伐で出陣、大阪城で突然急死、帰りを待っていた和宮のところに届いたのは、家茂の遺体と、出陣のときに約束した西陣織の着物であった。政略結婚ではあったが二人は深く愛し合っていたと伝わる。その悲しみを詠んだのが辞世の歌。



 高杉晋作(1839~1867) (『高杉家史料』)

 

 おもしろきこともなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり

 現代語訳 おもしろくもないこの世の中をおもしろく生きるのは、その人の心がけ次第だ。
 長州藩(山口県)に生まれ、松下村塾の俊英。奇兵隊を組織したが、英仏など四カ国連合 艦隊との馬関戦争に敗れ、のちに討幕運動を主導、長州征伐の折、幕府を破った。その後、結核 に倒れ、二十九歳の若さで世を去った。辞世の歌は、高杉晋作が死期を悟って「おもしろくこともなき世をおもしろく」と詠んだが、後を続ける気力を失ったので、枕元にいた勤皇の女流歌人、野村望東尼(のむら・ぼうとうに)が「すみなすものは心なりけり」と後をつけたという。筆者はないほうがいいと感じる。


 

 坂本龍馬 (1835~1867) (『坂本龍馬 関係文書』)

 

世の中の人は何とも いはば言へ わがなすことは われのみぞ知る

 現代語訳 世間の人は私のことを何とでもいうならいってくれ。自分のすることには固い信念を持つ私にしかわからないことだから。

 土佐藩(高知県)の下級武士の家に生まれた。江戸に出て勝海舟に学び、勤皇討幕運動のために薩長盟約に尽力したとされる。大政奉還後、京都の近江屋で幕府の刺客に暗殺された。辞世の歌は、龍馬が刺殺される前に詠んだもの。



西郷千恵子(さいごう・ちえこ:1834~1868)  (『栖雲記』)

 

 なよ竹の風にまかする 身ながらも たわまぬ節(ふし)は ありとこそ聞け

 現代語訳 細くしなやかな竹は風が吹くままになびくように、私はかよわい女ででありますが、風になびく竹にも曲がらない節があるように、敵に攻められても曲げる事のできない固い信念を持っていますよ。

 西郷千恵子は会津藩(福島県)の家老・西郷頼母(さいごう・たのも)の妻、新政府軍(官軍)による総攻撃の中で玉砕した会津藩の悲劇の犠牲となった。辞世の歌は、西郷千恵子が、官軍の攻撃の中で、姉妹や子供たちの家族が死んでいくときに詠まれた歌。

 


吉田松陰
(よしだ・しょういん:1830~1859) (『留魂録』)

 

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置(とどめお)かまし 大和魂(やまとだましい)

 現代語訳 処刑され、死んだ私の体はたとえこの武蔵野の野辺で腐り果てようとも、国を思う私の日本の魂だけは何としてもこの世に留めて置きたいものだ。
 
 吉田松陰は、長州藩(山口県)の下級武士の家に生まれた。討幕思想により投獄されている。その後、松下村塾を開き、明治維新の原動力となる人材を輩出したが、安政の大獄で処刑された。辞世の歌は、松陰が処刑される前日に書いた遺書『留魂録』に記されたもの。刑場で繰り返し高唱したと伝わる。


 

 西郷隆盛 (さいごう・たかもり:1827~1877) (『大西郷全集』)

 

 二つなき道にこの身を捨て小舟(をぶね) 波立たばとて 風吹かばとて

 現代語訳 二つとない大切な命であるが、国のために自分を捨て、波が立とうが,風が吹こうが、乗る人もなくうち捨てられたこの小舟に乗って、とにかくすすんでいかねばなるまい。



井伊直弼
(いい・なおすけ:1815~1860) 

 

 咲きかけし猛(たけ)き心の一房は 散りての後ぞ 世に匂いける

 現代語訳 桜の花が咲きかけたようにして、くだした私の政治的決断は、花が散ってから芳しく匂うように、私の死んだのちにこそ、その良さがみんなにかならずわかります。

 井伊直弼は、江戸時代の大老で、彦根藩主であった。アメリカのペリー来航に対し、朝廷の勅許を得ないで、外国と条約を結び、安政の大獄で反対派を弾圧、水戸藩浪士らによって桜田門外で暗殺された。辞世の歌は、井伊直弼が暗殺される前日に詠んだもの。日本は井伊の予言どおり開国へと大きく展開した。



東福門院和子
(とうふくもんいん・まさこ:1607~1672)

  

武蔵野の草葉の末(すゑ)に宿りしか都の空に帰る月影

 

 現代語訳 今京都で見ている月も、かっては武蔵野の草葉の露に宿っていた月なのだが、武蔵野(江戸)に生まれた私と同じく武蔵野から京都へやってきた月であることよ。
 東福門院和子は、第二代将軍徳川秀忠の娘として生まれ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の中宮となり、第百九代明正天皇を生んだ。結果として朝廷と幕府との調整役を務めることになった。辞世の歌は、東福門院和子が七二歳で死去したあとに残されていたもの。天皇家と徳川家との間を奔走し、双方の面目を立てるなど気苦労が多い一生だった。


 

細川ガラシャ (ほそかわ:1563~1600) (『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』)

  散りぬべき時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

  

 現代語訳 花が散り時を知ってこそ美しいように、世の中の人も死ぬときをわきまえてこそ素晴らしいのです。

 

 細川ガラシャは、織田信長を討った明智光秀の娘として生まれ、細川幽斎の息子、細川忠興の妻となった。クリスチャンとなったガラシャは,関が原の合戦で豊臣方の人質として大阪城に入るのを拒絶していさぎよく死んだ。
 辞世の歌は、ガラシャが,人質としての大坂城入城を拒絶し、自殺を許されないクリスチャンゆえに家臣に長刀で胸を突かせる前に詠んだ。

                                        


                                      以上