(267)旗本・御家人の人生ふしめ
国立公文書館、春の特別展示の一部、【幕臣たちの人生の節目】を少々記します。
江戸小石川に屋敷があった幕臣小野家の二十九年間にわたる日記『官府御沙汰記』(全28巻)には、出産の記録も多数あります。宝暦七年(1757)二月二十二日に、当主小野直泰(なおやす)の長男の出産に関する記事もそのひとつ。
直泰の妻「おれん」が産気づいてから、医者や子取婆(産婆のこと)が呼ばれ無事出産するまでの経過、および産後の母子の状態や親族の来訪などが事細かく記されています。
この日誕生した男子は、甚蔵と命名され、明和五年(1768)に十二歳で元服。翌年、将軍に初めてのお目見え(初お目見え)をしています。
ところで甚蔵の「出生届」は四月二十一日まで、実に二ヶ月も上司に提出されませんでした。なぜか?理由は「おれん」を後妻に迎える「縁組願」を提出していなかったから。婚姻と出征の日時が合わずにちょっとまずい。もっとも、そうでなくても、「出生届」の提出は遅れるのが普通でした。たとえば小野家の親戚の桑原盛利(後に大阪奉行)の長男の「出生届」は、産後四ヵ月半以上たってようやく提出されています。
丈夫届(じょうぶとどけ)(多聞櫓文書:たもんやぐらもんじょ)
「出生届」の提出が遅れるどころか、幕臣の家では男子が誕生してもそもそも届けが出されないこともありました。理由は、身体虚弱なため無事に育つ見込みがないと判断されたからです。
これら出生が届けられていない男子も、早世をまぬがれると「丈夫届」が改めて提出されました。資料は文久三年(1863)に、西丸新番頭の大久保権右衛門から提出された、配下の幕臣・佐藤誠一郎の男子・蔵吉(くらきち)の「丈夫届」です。
「出生のおり虚弱だったので、出生届の提出を見合わせましたが、丈夫に育っているのでこの旨申し上げます(意訳)」と記されています。
蔵吉は安政六年(1859)生まれで、この年五歳でした。
「丈夫届」が提出される背景には、大名でも旗本でも当主が十七歳未満で死亡した場合は、家の存続を認めない(お家断絶)という、幕府が定めた相続の原則がありました。このため「出生届」を提出した男子が幼少時に没したり、病弱で十七歳以上まで生存しない恐れがある場合、【家の断絶を逃れる便法】として、「丈夫届」の慣行が定着したものと思われます。出世時の届けではない「丈夫届」では、家相続の可能性のある男子の年齢を実際より高く申告することができるからです。
展示の「肥前国佐賀鍋島尚丈夫届」は丸藩主の松平(鍋島)肥前の守が文久四年(1864)に提出した弟尚丸の「丈夫届」。尚丸は先代藩主直正(隠居して閑叟)の妾腹の五男。
素読吟味(そどくぎんみ)(多聞櫓文書)
幕臣の家に生まれた男子は、武術だけでなく、手習い(習字)や算術、そして小学と四書五経など儒学の基本書を学習しました。通常は七、八歳で手習いの稽古を始め、十代になると読書(学習)のため、師を選んで塾通いです。幕臣の子供たちは意外に忙しい日々を送っていたようです。寛政年間になると、幕府による学力試験が行われるようになり、成績優秀者には褒美の品が与えられました。
学問吟味
素読吟味が初級者の学力試験だとすると、同じ昌平坂学問所で数年に一度行われる学問吟味は上級者の試験といえます。
武術では水泳がお徒歩(かち)組みでは必須で、水泳の稽古が厳しかったといいます。日本では建前では泳げないと高校を卒業できませんが、韓国ではそうでないセウオル号遭難事故で最近知りました。
たとえ学問や武芸に励んだとしても、幕臣の子弟は誰もが幕府の役職につけたわけではありません。父祖や親族が幕府の高官だったり、大奥その他に強力なコネがあればともかく、無役の子弟が就職したり、在職者が希望のポストへの異動を実現するためには、相応の出費とまめな努力が必要でした。
幕臣たちの就職活動は、幕府の重職が江戸城に出勤するまえに、その屋敷にご機嫌伺いに参上する「対客登城前(たいきゃくとじょうまえ)」と呼ばれる慣行もそのひとつです。
幕臣の結婚事情(縁組願之留:えんぐみねがい の とめ)
就職や出勤と同様、結婚が人生の一大事だったことはいうまでもありません。
資料の『縁組願之留』には、文久元年(1861)から三年までの間に、幕臣から提出された結婚願いの内容が記録されています。一見して気がつくのは、「初縁(初婚のこと)同士ではなく、一方が「再縁(再婚)」だったり、「再縁」どうしの縁組がとても多いこと。ひとたび結婚したら、「二夫(にふ)にまみえず(再婚するべきではない)」とする“貞女の教え”と、結婚の現実は、ずいぶん違っていました。
再縁で結婚を出願する場合には、先の相手と離縁が円満に行われた旨を「双方熟談之上離縁仕(そうほう・じゅくだんのうえ・りえんつかまつり)」と記した「訳書」が添付されました。
持参金問題(政談)
女性が容易に再婚できた背景には、当時、結婚の際に持参金の額が重視されたという事情がありました。たとえ初婚でなくても(夫より年上でも)男性側が希望する持参金さえ用意できれば、幕臣の家の女性は再婚相手に困ることはなかったようです。
持参金は、離縁の際に嫁入り道具と共に返還されたので、女性側は離婚しても経済的に困ることはなく、一方、男性側は持参金をそれまでの借金の返済に当て、離縁の時には持参金返済のためにまた借金をしなければなりません。
その返済のためにも、再婚の必要があったのです。持参金さえあれば結婚は女性側が有利。しかし娘が多い家ではそれは難しく、そのため持参金が用意できないために嫁にいけない娘や、希望通りの持参金がある相手が見つからず結婚できない息子が増え、幕臣の子女の結婚問題は、幕府にとっても大きな悩みとなっていました。
儒者の荻生徂徠は、意見書を吉宗に提出、「縁談を司る役人(結婚奉行?)を新設すべき」と述べています。
以上は国立公文書館で開催中の「旗本御家人 Ⅱ」の展示のごく一部です。時代劇などとはまったく異なる事実に驚かされ楽しめぜひお勧めです。手渡されるパンフが優れもので絶対に貰ってきたほうが。また無料で音声案内器具を貸してくれますが、結構便利。
