(282)『徳川将軍家十五代のカルテ』
から家斉(いえなり)のカルテ
もうけた子は五十七人
十一代将軍の家斉は御三卿の一橋治済(ひとつばし・はるさだ)の長男だった。
御三卿とは徳川家の支族である田安家、一橋家、清水家のことで、尾張、紀伊、水戸の御三家に次ぐ家格を持つ家柄である。御三家は家康の九男・義直が尾張家を、十男・頼宜が紀伊家を、そして十一男・順房が水戸家を創設した別格の大名だった。幕閣とは別の立場から将軍を補佐し、宗家に嫡子のないときはこれを継承するというものだったが、江戸中期ともなると宗家と御三家との間柄はかなり疎遠になり、ときには警戒すべき対立相手になった。
そこで八代将軍吉宗は二男の宗武に田安家を、四男の宗尹(むねただ)に一橋家を創設させて御三家に準じる扱いにした。九代家重もこれに倣い、次男の重好(しげよし)を初代とする清水家を創設させ、これら三家を御三卿と称して宗家に世継ぎがいなければこれを継ぐ資格を持たせた。ただし大名には取り立てず、十万石の賄料だけを与えて場内の田安門、一橋門、清水門わきに住まわせた。御三家はその領地によって尾張、紀伊、水戸と呼ばれたが御三卿はその邸宅名により田安、一橋、清水の名で称された。
家斉は安永二(1773)年に側室お富の方から生まれた。幼名を豊千代という。六歳になった安永七年に痘瘡を患い、順調に経過して完治した。翌年には水痘にかかったが、これも軽く済んだ。
先代将軍の家治には二人の男子がいた。長男の家基(いえもと)と次男の貞次郎である。
貞次郎は生後三か月で早世したが世継ぎの家基はすこやかに育った。だが十八歳のとき鷹狩りに出かけて急病にたおれ、数日のうちにはこの世を去った。狼狽した閣老たちは急きょ一橋家から九歳の家斉を養子に迎えて将軍継嗣とした。閣老たちは冷や汗をかいたことだろう。
家基の急死は田沼意次による毒殺ではないかと噂が立った。風説は長らく周辺に立ちこめ、家斉は生涯にわたって家基のたたりを恐れた。ふだん頭痛もちだったのも家基の怨霊に脅かされ不安を抱いていたのだろうと囁かれた。
不安なる精神は健全なる身体にも宿る。家斉は飛び切り頑丈な肉体の持ち主で、精力もいちだんと旺盛だった。正室のほかに十六人の側室を抱え、歴代将軍にはまれにみる五十七人の子女をもうけた。それというのも十五歳で将軍職を継いだとき、実家の一橋家から「先代将軍に男子が二人しか生まれなかったことがそなたの運命を変えたのじゃ。宗家へ行ったら心して子女をもうけよ」と訓戒をうけ、子づくりに励んだからである。
江戸時代、多くの親はこどもを流行病で亡くした。家斉の子女も五十七人中、三十二人が五歳を待たずに早世した。現代の七五三はこどもと両親が着飾る派手なファッション・ショーと化したが、往時の七つの祝いは、「よくぞ七歳まで無事に育ってくれた」と心底より氏神に感謝する意義深い祝い日だったのである。
徳川宗家と同様、世子のいない諸大名は家督相続に悩んでいた。関ヶ原の合戦で西軍を裏切った小早川秀秋はその功により備前・備中・美作にまたがる五十一万石の大大名に取り立てられたが、世継ぎがいないために無嗣断家(むしだんか)となった。嗣子(しし)を欠く全国の大名はあらゆる手段を尽くして存続をはかった。藩主死亡後の公儀無届、嗣子の聯例詐称、嗣子入れ替えなどはざらにあった。大名の苦衷を察してか、あるいは弱みに付け込んだといおうか、家斉は側室に産ませたおびただしい子女を諸大名の用紙におしこみ、あるいはむりやり嫁にとらせた。
最大の被害者は尾張徳川家である。尾張家は家斉から四度も子女をおしつけられ、複雑極まりない家系にされた。はじまりは寛政六(1794)年、尾張九代宗睦(むねちか)の長男である五郎太のもとに家斉の長女淑姫(ひでひめ)を入嫁させた。五郎太がその年に死亡したので、寛政八年に淑姫を一橋愷千代(やすちよ)に再嫁させた。さらに家斉の第六子である三男の敬之助を宗睦の養子にして送り込み、敬之助が寛政九年に夭折すると、こんどは愷千代を養子にした。これが尾張十代斉朝(なりとも)である。斉朝には嗣子ができなかったので、天保五(1834)年に家斉の四十六番目の子である十八男の斉温(なりはる)を斉朝の養子に入れ尾張十一代とした。斉温が天保十年に死亡すると、田安家に養子として与えた三十番目の子で十一男の斉荘(なりたか)を尾張十二代におしこんだ。
さて、昔、筆者は宅地建物取扱主任という不動産業には不可欠の試験があり、まあ民法のさわりなどを学んだ。不動産取引にはどうしても相続の知識などが必要だからで複雑な場合は関係を整理して理解する。誰の遺産がどこへ行くかわからなくなる。こういうのは図を書き整理していくのだが、尾張徳川家の場合はその気も無くなる。
そういった次第で、家斉の長女と十八男と十一男は異母姉・弟・兄でありながら、親子・子・孫というなんともややこしい関係になった。尾張家は徳川宗家のいいようにかき回され、初代義直以来の血統を根絶やしにされてしまったのである。
老衰に近い最期
すでに述べたように家斉の曽祖父吉宗は房州(千葉県)嶺岡に牧場をひらいて乳牛を飼育させた。家斉の時代になると乳牛は七十頭ばかりに増えた。家斉は牛乳を精製した「白牛酪」が大好物で、長らくその醍醐味を味わってきた。彼の精力絶倫の源はこんなところにあったのかもしれない。十六人の側室に五十七人ものこどもをつくれば、大抵は腎虚を起こして早々に衰耗しそうなものだが、色の道に精進した家斉は、交合中に多くの女性から長生きの粘液素を吸収する術を会得して化け物のように頑健なからだをつくりあげた。酒も強く、壮
年時代は毎晩のように酒宴を催し、花見や紅葉狩りのときなど浴びるように飲んでも乱れなかったという。晩年は実家の一橋家より「深酔いはお慎み遊ばせ」との言葉があり、以来、節酒に努めた。ある冬、鷹狩りの途上、風雪が吹き乱れ、供の者が「寒気しのぎに御酒を召し上がっては」とすすめると、「そこを飲まぬが男なり」と戯言(ざれごと)をいい、杯に手をつけなかった。
在職中病臥したのは数回の感冒だけだった家斉も古希が近づくと急に体調が崩れた。天保十二(1841)年一月十三日、疝癪(せんしゃく)気味になり腹痛を訴えた。感冒の一種である感染性胃腸炎をわずらったのかもしれない。同月十五日にも腹痛があり、表御殿に出なかった。翌十六日二人の医師が家斉の主治医を務めるよう召し出された。
それからも腹痛がつづき、同年一月三十日、危篤状態におちいり、辰の刻(午前八時ごろ)あの世に旅立った。享年六十九。死因ははっきりしないが腹膜炎などの急性腹症が疑われるという。現代では老衰死の大半が嚥下性肺炎による心不全である。法名は文恭院、遺体は上野の寛永寺に葬られた。
家斉はやたらにこどもを生産したエロ爺さんのように思われているが、案外に風流人であったという。
『徳川将軍家十五代のカルテ』 篠田達明著 新潮新書 2005年
