(299)象をめぐる暗闘
現代であれば、象を見ようと思えば動物園で簡単に見ることができる。江戸時代の人々にとっては想像上の動物に近かったが、象は三度やってきていた。歴史学研究会編『新版日本史年表』(岩波書店)によれば、一回目は、慶長七年(1602)六月に「ベトナムの船が肥前(長崎県)につき徳川家康に孔雀・象・虎などを贈る」、二回目は、享保十三年(1727)六月に「コーチ国(ベトナム北部)より象二頭輸入」とある。三回目は、年表に出ていないが、実は文化十年(1813)に長崎にやってきている。
一回目のことはよくわからないが、二回目の象は有名になったのでよく知られている。幕府の命令で、清国の鄭大成(てい・たいせい)という商人の船が、牡と牝各一頭を長崎に運んできた。牝は三ヵ月後の九月に死んだが、牡象は長崎から江戸までの大旅行をした。
その旅は、沿道の人々の好奇のどよめきに迎えられた。京都では御所にひきいれられ、天皇や上皇、親王から公家たちが見物した。当時の中御門天皇がこれを見て、「時しあれば人の国なるけだものもけふ九重(ここのえ)に見るがかなしき」という和歌を詠み、参内のためとはいえ従四位(じゅしい)に叙せられるほど歓待された。まさに、天覧の栄に浴した。
象は東海道を下り、享保十五年五月二十五日に江戸に到着し、同二十七日には江戸城に登城した。八代将軍吉宗は、江戸城大広間に出て象を上覧し、御三家そのほかの人々もこれを見物した。そののち、江戸幕府の浜御殿(現・浜離宮)で飼育されたが、寛保元年(1741)四月、中野村(中野区)に預けられ、翌年十二月に病死した。吉宗が象を輸入した理由は、吉宗のただの物好きでないとすれば、その五年前の享保八年にオランダからペルシャ馬、すなわち西洋馬を輸入し、下総(千葉県)小金と佐倉に造った牧場で飼育したことなどと、何か関係があるのかもしれない。
ここでは、ほとんど知られていない第三回目の象のことを紹介しよう。文化十年六月二十八日(西暦1813年7月25日)に、イギリス船シャルロッテ号とマリア号に二隻の船が長崎港に着岸した。象を乗せてきたのはシャルロッテ号で、7月5日に出島に陸揚げされ、輸出される銅を保管する倉庫に入れられた。この象は、幕府が注文して運ばれてきたのではなく、ピストル、卓上時計、オルガン、望遠鏡などとともに、将軍への「別段の贈物」の一つだった。そこで長崎奉行がこの象を検分することになったが、このときの奉行は、名奉行として名高い遠山金四郎(景元)の父親で、遠山景晋(かげみち)である。
遠山景晋は、文化九年二月から同十三年七月まで長崎奉行の職にあった。
この象は『続長崎実録大成』によると、セイロン(現・スリランカ)生まれで、年齢は三歳、高さ七尺、頭から尾までが七尺五寸(2.25メートル)、前足が三尺五寸(1.05メートル)、前足が三尺、鼻の長さが五尺(1.5メートル)という。遠山景晋は、紀行文や日記をたくさん書いているが、長崎奉行時代の日記も残っている。その日記には、牝で年齢五歳、高さ五尺、成長すれば一丈(3メートル)になると記され、前記述と少し異なっている。実際にマジかに見て書いた記録なので、遠山の記録は信頼できるのではないか。この象は、長崎版画(長崎で作られた木版画)にも登場している。
象の絵とともに、年齢は六歳、体重はおよそ二千斤余(およそ1.2トン)、高さ五尺三寸、鼻の長さ三尺八寸、体長一間余り(1.8メートル)、一日の食物、米二升と茅三荷、酒一升、砂糖一斤などと説明がついている。セイロン生まれだから、インド象であろう。十二歳から十六歳で大人になるというから、長崎にやってきた象はまだ子供の象である。
八月三日に、象は出島を出て、長崎奉行所役人が警備するなか、ベンガル人の象遣いを背に乗せ、イギリス船の船長二人と船員二人、それにオランダ通詞を伴い、長崎奉行所の門をくぐって長崎の馬場に到着した。その道筋には、長崎を代表する最大の祭礼、諏訪神社の「おくんち」より多くの人々が群集したという。異国からの珍獣を一目見ようと、興奮した面持ちで繰り出しただろう長崎の人々の様子が目に浮かぶ。
馬場前の馬見所に座った奉行や奉行所の重役、敷物に座った町年寄、長崎会所や奉行所出入りの人々、さらには見物を希望した人々の居並ぶ前で、象は象使いの鞭に促されて四、五回馬場を、馬術でいう早地道(並足より少し早い)で回り、象使いが蛮語で命じるとよく聞き分け、四本の足を折って伏したり立ったりという「芸」を見せた。その間に、好物のトウモロコシ、瓜、スイカ、梨などを、鼻を頭の上にあげ象使いから鼻で巻き取って口に入れ食べた。鼻で青草をむしりとったり、前足で根を踏みつけて鼻で草を引き取って食べ、水も鼻でまき込んで飲み、蝿や虫も鼻を振り回して追い払うなど、一切のことを鼻でやるその働きに遠山景晋は感心している。
また性格は温順だが、怒ると大声で吠え花を振り回して暴れ、その鼻で打たれるとどのような者でも打ち倒されてしまうらしいなどと書いている。牙について、上歯の両脇に小さく生えているのは、牝象だからと推測し、成長すると長くなり、上へそり上がるらしい、また竹は禁物で、象は竹やぶのあるところは通らないという説を書きとどめている。(「遠山景晋日記」)。
せっかくの贈り物だったが、幕府はこの珍しい贈り物の受け取りを拒んだ。九月一日に、オランダ商館長は、通詞を通して象は受け取れないと伝えられている。このため、象の飼料を長崎奉行所から与えられただけで、象は再びシャルロッテ号に載せられ空しく帰っていった。このころオランダ本国はナポレオンに征服され、フランスの従属国となっていた。
フランスと戦争中のイギリスは、フランスの従属国となったオランダの東洋における権益を奪おうとして活動し、文化八年(1811)にオランダの植民地バタビア(インドネシア・ジャカルタ)も、イギリスに占領されてしまった。バヤビヤは長崎出島に来るオランダ船の出港地である。
象を乗せた船には、なんと元オランダ商館長のワルデナール(在任1800~03)が乗船していた。その目的は、イギリスのインド副総督ラッフルズ(在任1811~16)の命を受け、長崎出島のオランダ商館をイギリスへ引き渡すことを商館長ヘンドリック・ドウーフ(在任1803~17)に要求するためだった。ワルデナールは、もはやイギリスの指揮下に入っていたのである。象はオランダからイギリスへの交替の挨拶代わりだったのかもしれない。しかし、商館長ドウフの巧みな交渉により、ワルデナールはその目的を達することはできなかった。『長崎オランダ商館日記』には、そのようなことはまったくしるされていない。しかし、商館長ドウフの書いた秘密日記には、ワルデナールとの緊迫した交渉のやり取りが克明に記されている。
日本側も、オランダの情勢を薄々は知っていたが、素知らぬふりをしていた。何も知らない長崎の町では、イギリスが占領したバタビアから送られてきた象で大騒ぎをしていたが、出島の商館内では、ワルデナール対ドウフ、イギリス対オランダの厳しい闘いが繰り広げられていた。十九世紀初頭とは、国際政治の荒波がもうそこまで日本に迫っている、そんな時代になっていた。(『長崎オランダ商館日記』)。
長崎には珍獣や奇鳥がもたらされ、ラクダ、あざらし、ダチョウなどが長崎版画に描かれて長崎土産になっていた。このほかには、安永元年(1772)頃、江戸城内の庭園である吹き上げで「豪瀦(ごうちょ:ヤマアラシ)」を飼育していた。ジャカルタ豪瀦とあるので、オランダからもたらされ、江戸まで運ばれたものだろう。
ヤマアラシにはユーラシア南部からアフリカに分布するヤマアラシと、南北アメリカに分布するキノボリ・ヤマアラシとがいるというから、これは前者のヤマアラシであろう。どのような目的で幕府が飼育していたのか不明だが、漢方では、肉は大腸の薬、胃は黄疸や水腫の薬、とげは心臓の薬として使われているそうだから、薬用にするため飼育していたのかもしれない。
平賀源内(1728~79の先生で人参(朝鮮人参)博士として名高く、当時幕府に設けられていた人参製法所を主宰していた田村元雄(1718~76)に下げ渡され、薬園で飼育されていたらしい。長崎版画にヤマアラシが描かれている。腹を立てると毛を立てて丸くなり、食べ物は唐芋(カライモ:サツマイモ)で、ねずみを捕るのがうまいなどと解説されている。
安永四年には、雌雄二頭の綿羊が江戸にきている。先ほどの人参博士田村元雄が、幕府の許可を得て、長崎のオランダ通詞を経て、綿羊の代金と運送費に二十二両もかかっている。今一頭はオランダ通詞の所有だったで、これもオランダからもたらされたものだろう。田村元雄によると、綿羊を繁殖させ、日本でラシャなどの毛織物を織ることができれば、価値があるといっているので、珍獣というより、目的は殖産興業策であろう。
大江戸世相夜話 藤田 覚著 中公新書 2003年
