(300)献残屋(けんざんや)の話
贈答品を買い取り、贈答用に再利用するために販売する商売は、江戸時代からのものと考えていたら、実はもっと古く、室町時代からあった。古い記録では、余った贈答品や、使わない贈答品を買い取り、それを贈答用に再利用するために売りさばく商人は早くも十四世紀にはいたそうだ。
江戸時代の贈答品は、喜多川守貞(きたがわ・もりさだ)が献残(けんざん)としてあげている品々は、のしあわび、干物、干貝、塩鳥、昆布、樽、くず粉、片栗粉、水餅、金海鼠、干し鮑、くるみ、からすみ、このわた、雲丹といったものがある。確かに生ものや、痛みそうなものはない。包みや箱を変えればそのまま献上や贈答に再利用しやすい。おそらくはこれらが、贈答品市場に流れ込んだのだろう。このような商売が成立する背景には、贈答の煩雑さと形式化が進んだという事情があったらしい。
それはともかく、室町時代の主たる贈答品は、太刀と馬だった。このことは、将軍と大名との間の贈答にも表れている。天明八年(1788)七月に、幕府は、大名が将軍に献上してきた領内特産品は、古くから品目が決まっているために、実用に役立たない品物でも、また献上する理由もなくなったものでも、それを取り揃えるのに無駄な金がかかるので、そのような品があるならば品目の変更を幕府と相談するようにと命じている。(「御触書天保集成』」。服属儀礼のひとつとして、参勤交代のお礼などの際に大名は領内特産の品を将軍に献上してきたが、実用でないものや献上理由がわからなくなったものまで、わざわざ買い調えて儀礼のために献上してきた。単なる時候の挨拶のような軽い儀礼ではなく、将軍と大名の間の重要な儀礼であるため、たとえ実用品ではなくとも、またそれをなぜ献上するのか、理由がわからないような品でも、大名は古くからの決まったものを贈り続けていた。
形式化した儀礼の品物が、換金され再利用される仕組ができあがり、それを担ったのが献残屋という商売だった。喜多川守貞によると、この商売は大阪にはないと思っていたが、お祓筋(おはらいすじ)本町(大阪市中央区)の北に一軒あり、江戸城周辺にはたくさんあり、京都にもあるだろうという。江戸に多かったという事実から、献残屋が、将軍と大名、幕府重職と大名、あるいは大名どうしなど、武家社会の贈答儀礼の裏側に成り立つ商売だったことがわかる。
中世の武家の贈答品はおもに太刀と馬だったといわれるが、これは江戸時代の武家でも同じことで、大名たちは、将軍へのお目見え、家督の相続、官位の叙任などの節目節目のみならず、毎年くりかえされる年始のお礼から始まる年中儀礼のさいには、太刀と馬を献上していた。また、官位の叙任やその他のときには、老中や側用人、京都所司代などの幕府重職に、やはり太刀と馬をお礼として贈っている。一年の間には、献上や贈与に使われた太刀と馬はかなりの数にのぼった。武家だけでなく、武家と公家の間でも、また公家社会でも太刀と馬の贈答がおこなわれているので、文字どおり数知れないほどの需要があった。
しかし、いくら江戸時代でも、そんなに太刀や馬が流通していたとは思えない。室町時代には、馬は贈答用に再利用されていたが、太刀はよくわからないそうだ。
江戸時代、年始などの際に大名は、「御太刀一腰(おんたちひとこし) 馬一匹」などと書いた太刀と馬の目録を将軍に捧げる。ところが、その太刀は実は真太刀(本物)ではなく、木で作った木刀だった。喜多川守貞は、これは「あがり太刀」といって、木で作った木刀を黒漆で塗り、真鍮の金具をつけたもので、太刀の形をしているだけの代物だが、献上にはこれを用いた、さらに、太刀代といってなにがしかの金銭を添えたが、この太刀はほかに使いようがないので、繰り返し献上に使われる、と書いている。
現代もお歳暮とかお中元で、サラリーマン家庭にもいくらか関係がある贈答品だが、大抵は食料品や嗜好品であり、やはり時代が違って武家ともなると太刀、と馬、これは頂いても困るでしょうね。だから金銭をつけていたのが、次第に金銭だけとなったのではないか。ところがお困りの国などは金銭で固定化してしまいますが、日本はそんなことは許しませんで、やはり時期になるとビール缶などが飛び交っているようです。露骨を嫌う日本人、一番の賄賂らしきものなら、天下りとか、それ程偉くない場合は再就職のお世話でしょうか。定年が来たからそのまま「ぽい!」というのは少ない。この人たちは極秘情報の宝庫ですからねえ。
ところで公家社会でも同じでして、年賀の際に公家から天皇に太刀と馬を献上したが、其の太刀は木刀だったといいます。大名などが官位を叙任されると、天皇以下へ官物(かんもつという名のお礼をするが、内侍所(ないしどころ)へ太刀代として銀五匁、銭に換算すると五百文ほどといいます。「どうしようもないほど沢山あった」のに、あまりに価値の無いものであったせいか、大正十年頃(1921)ごろには、旧公家や古道具屋など、あちこち捜したが見つからず、どうも明治維新後は不要となって「焚き火」にされたのではないか、と推理されているとか。
馬は便利だから、室町時代は博労などに売却され再利用されたが、江戸時代は太刀が真太刀ではなかったのと同じく、生きた馬ではなく馬代としてお金が献上ないし贈与された。もちろん、良馬の産地であった南部藩(岩手県)や仙台藩(宮城県)などが、通常の贈答儀礼ではなく、将軍に馬を献上するときは生きた馬であった。馬の代金といっても、時々の馬の市場価格などというものではなく、一定額に固定されていたという。
大名が官位を叙任され将軍に御礼をするさい、「御太刀一腰 御馬代」と目録に書いて献上するが、馬代としてはほとんどが金十両を進上している。旗本が官位を叙任されたときの馬代は銀一枚(銀43匁相当)で大名の十分の一以下と安くなっている。このように馬の献上といっても、馬代金であり、しかも時価ではなく定額化されていた。なお幕府は、馬代を其のつきのうちに納めるようにと、催促すらしている。幕府も大名たちも結構世知辛い。
いまでも、結婚式などのご祝儀には、手の切れるような新品のお札を入れる習慣がある。江戸時代でも藩札や銀札などの紙幣もあったが、こやつは領内限りの通用だから贈答用には使えず、正金である小判や大判を使うことになる。しかし、貨幣改鋳のときには新品の小判もあったろうが、通常は新品は無い。そこで両替屋などに行って、きれいな小判を入手して贈っている。刀や馬が現物ではないかわりに、その分だけ小判、大判には気を使ったのだろう。
天皇や将軍に献上する品も、太刀は木の太刀、馬は馬代、しかも代金は定額というのが、将軍と大名、天皇と公家、あるいは武家との贈答関係の実態であった。きわめて形式化、儀礼化した関係を読み取ることができる。だからこそ、献残屋などという商売が成立したのだろう。
参考本:『大江戸世相夜話』 藤田 覚著 中公新書
