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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(298)『文人悪妻』から岸たまき
 
 関東地方を旅しておりますと、しばしば旅館に画家、竹久夢二の作品が登場いたします。色々と読んでおりますから、筆者は気分が悪くなる。しかし旅館側はそんなことは知らないのでしょう。なぜ、気分が悪くなるか? 1例を記しておきます。これは特定の妻たちの話というより、大正・昭和の女性の代表として書かれています。
  

 竹下夢二はつぎつぎと女の同棲をくりかえした人気画家です。最初は、明治40年(1907)に岸たまきと結婚しました。夢二は24歳、たまきは2歳上の26歳でした。
 教会堂の席に座ったたまきが、聖書をひざの上に置いて泣いている「いのり」というタイトルの絵があります。
 この絵が描かれたとき、たまきは夢二とすでに離婚しておりました。離婚したのに、夢二との子を身ごもっていたのです。夢二の本名は茂次郎で、故郷岡山県庄村の人からは「もうさん」と呼ばれていたので、泥臭い名を夢二と改めたのです。女性にもてるためには、まず名前を変えなくちゃいけません。夢二という名にしてからは乱脈遊蕩(ゆうとう)派になりました。
 
 たまきは富山県裁判所判事の娘で、金沢に生まれました。東京美術学校(のちの東京芸大)出で、高岡工芸学校の教師であった堀内喜一と結婚し、二児を生みました。勝気な性格で、自由気ままな女性ですが、夫が死ぬと、二児を預けて上京し、早稲田鶴巻町に絵ハガキ店「つるや」を開きました。
 木版や石版刷りの絵ハガキを売り出すとたちまち繁盛し、色白なたまきの美貌が評判になりました。そこへあらわれたのがアナーキスト連中とつきあいがある竹久夢二でした。
 

 そのころの夢二は、荒畑寒村の斡旋で「平民新聞」にコマ絵を書き、アナーキストの牙城「平民社」とのつきあいがありました。
 たまきの魅力に取りつかれた夢二は、自分の絵を売りつけつつうまく口説いて、三ヶ月で結婚し、長男虹之助が生まれました。その翌年、たまきが28歳のときに離婚します。二年半の結婚生活でした。

 ところが離婚した三ヵ月後に二人は富士山に登り、ふたたび東京麹町(こうじまち)の下宿で同棲し、たまき30歳のとき、夢二との次男不二彦が生まれます。この年大逆事件で幸徳秋水が無実の罪で処刑されました。たまきと銚子の海鹿島へ旅をしたとき、隣りに住む「おしま」に恋をして、失恋し、それを詩にした「宵待草」は大正・昭和の流行歌になりました。夢二は絵だけではなく詩もうまかったのです。
 たまきは35歳で三男草一をうみますが、このとき、夫の夢二は21歳の笠井彦乃(かさいひこの)とできていました。彦乃は本郷菊坂の女子美術学校の生徒でした。
 

 たまきは、夢二との間に三人の男の子を生んだものの、正式な婚姻の子は長男虹之助だけです。
 ちょうどそのころ描かれたこの絵で、遊蕩派の画家は「泣く女」が好きなことがわかります。たまきは、夫が12歳年下の娘彦乃とできても、どうにか夫の心を取り戻そうとして、キリスト教に救いを求めました。
 しかし、女が尽くせば尽くすほど男は逃げていく習性があります。夢二は、たまきから逃げながらも、自分に恋して泣くたまきの絵を描いたナルシストです。これが夢二式の「理想の女」なのです。
 たまきは勝気な女ですからよほどのことでないと泣かない。それを泣かせてしまうのが、夢二の腕でした。悪いやつですねえ。
 夢二は色の黒い田舎育ちの男で、さして美男子というわけではありません。そんな泥くさい中年男でありながら、絵は人気がありました。
 そんな夢二の身勝手な放蕩ぶりは、志賀直哉によって批判されました。それでも夢二の絵が売れたのは、男の悪い本性が、抒情的な技法で、うまくまぶされているためです。

 

 彦乃もまた夢二にほんろうされて、25歳で死んでしまいました。
 若くして死んだ彦乃には、生前から「死にそうな」気配がありました。これにより、売れっ子の画家は、「死にそうな美人」にも魅かれることがわかります。
 夢二の次の恋人は佐々木カネヨことお葉で、縛り絵の画家伊藤晴雨のモデルをしていました。細縄で縛られて吊るされる絵のモデルです。
 これまた夢二の浴場をそそる女で、お葉は夢二に殴られて、腕に青あざをつくることもたびたびでした。お葉も夢二のモデルとなり、お葉の絵もたくさんあります。

 今でも人気イラストレーターは女性によくもてて、つぎからつぎへと女たちをたぶらかしていきます。たぶらかされる女性のタイプは「泣く女」「病弱で死にそうな女」「縛りたくなる女」という共通項があります。
 これは淫乱な抒情をかきたてる三要素なのです。女権論者は「けしからん」と怒るでしょうが、そういう女性にかぎって、しらずしらずのうちに、一見やさしそうで弱弱しい夢二タイプにもてあそばれてしまう。おとなしくひかえていて、女のいうことをきいて、まめにつきあって、よく気がつく生活破綻者(はたんしゃ)に、女はコロリとだまされてしまうのです。
 

 夢二にかかわった女性のうち、一番気が強かったのは、最初の妻たまきです。不幸を背負いつつも、夢二にすがりつき、生涯を通じて夢二に恋し続けて泣いていました。夢二の放蕩は、たまきに対する恋のあてつけで、どんな女と一緒にいるときも、つねに環が泣いている姿が頭にあったのだと思われます。


『文人悪妻』嵐山光三郎著 新潮文庫 平成24年