(304)旅と情報交換
日本は狭いうえに険しい山地が多い。加えて山の奥にまで村がある。村と村を結び山と海との村々を結ぶため人々は旅をした。
川や海を渡る旅は危険に満ちてはいたが、一時に大量の物資を運ぶことができた。山道を重い荷物を担いでの内陸の旅は苦しいものだった。それでも人々は旅を苦にせず、さまざまの目的を持って移動を重ねてきた。
良質の木を求めて奥山を果てしなく歩き、特殊な技術で椀や、盆などの木器をつくり生計を立てた人々を[木地屋(きじや)]と呼んだ。この人たちは日本の漆器工芸の発展に貢献した。英語で大文字だと国名の「日本国」を意味し、小文字だと漆器を意味する。
[Japan, japan China, china]同じように大文字のチャイナはシナで、小文字だと陶磁器を意味する。日本人は最初は木製の食器を使ったという。次第に漆で美しく装飾され、世界に有名となった。
深山を駆け巡り、獣類を獲るマタギは、里や町に毛皮と薬を供給した。特に熊の胆は現代でも珍重される。
奥山の下の山腹では、里に住む人が、里と山を往復して、焼畑耕作をしています。仕事は家族だけで行うのが常で、夫婦二人が鍬をかついで山道を登る。時には出作り小屋を設けて、そこに住むこともあった。雑穀や根菜類を栽培し、自らの生活の糧とし、また里や海辺の村に供給した。夫婦が山で焼く木炭は、町の台所の煮炊きや暖房に役立った。木地屋やマタギに比べると、距離は短いもののこれも旅の一つの形だった。
刀や農具、日用品を供給する職人には、鍛冶屋や鋳物師(いもじ)がいる。鍛冶屋は町に店や住居を構えて、刀剣をつくる刀鍛冶が居るが、農具など日常使う道具を鍛える者を野鍛冶(のかじ)といった。最初の頃、野鍛冶は村々を回り、集落の週変に小屋をかけた者が多かったが次第に定住するようになり、そして製品を売りながら広い範囲を巡回し、秋の耕作が終わると、磨耗した農具を回収し、また打ち直して春には人々へ供給する。型に鉄を流し込んで製品をつくる鋳物師も方々へ旅をした。
日常生活に欠かせない薬を入れた行李を背負って全国を売り歩く売薬が、日本の行商の始めとされる。行く先々で自分が見分したことを話して聞かせ、そして得意先からは身辺の様々な話を聞いた。相互の情報交換により、人々はいながらにして、世間の動向を知ることができた。また得意先には、錦絵や珍しい品を土産にしたから、地方の人々も、江戸や大阪
や京都の文化を知ることができた。
この売薬商人から生まれた香具師(やし)は都市のあちこちで曲芸や奇芸を演じて見物衆を集め、薬や焼き物などの日用品や、食料を売った。また縁日や祭礼に店を張って、祭り気分を盛り上げた。中には「フーテンの寅さん」のように、全国をまたにかけて歩くものも出てきた。彼らの多くは人情味豊かで、したがって土地の人々も喜んで受け入れ、世間話を通じて情報交換が行われた。
牛や馬などの家畜を媒介とした人々の交流も盛んであった。家畜の売買をする者は伯楽・博労(はくろう)と呼ばれ、最初は牛馬の病気を治す獣医だったが、そのうちに牛馬を求める人々のあいだを巡回する売買業者となった。ときには大きな牛市や馬市に出かけて牛馬を売買することもあっただろう。現代の中古車ディーラーにあたる。
このような山を越え、里を越えて旅をした人々は、さまざまな情報を交換し、行く先々の人々と信頼関係を結び、物だけでなく、結婚の仲介をして通婚圏を広める役割を担った。これで各地域の生活領域も拡大していった。旅は本来の目的を果たすだけでなく、多大な文化活動でもあった。旅によって江戸時代は進化していったといってもいいだろう。
参考図書:『旅の民俗誌』 岩井宏實著 河出新書 2002年
