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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



(305)江戸時代のマタギ


 一、狩人の伝統
 
 東北地方の奥山で、熊やシカ、イノシシその他の獣を追って、縦横に深山を移動する狩人に、マタギと呼ばれる人々がいる。マタギは東北から、関東、中部地方の山地まで、活動の範囲を広げている。所々で狩猟を行い、里に下りては獣の肉や皮、内臓などを供給して暮らしを立てていた。その中で特に秋田のマタギは有名である。

 

 江戸時代後期の文人・鈴木牧之は、『秋山紀行』の中に、長野まで狩りに来ていた秋田マタギに会って話を聞いたと記している。
 彼らはもとは、弓矢を持って狩猟をしていた。そのほかにタテと呼ぶ手槍や、シカを呼び寄せるための鹿笛、獲物を解体するための山刀などを携行していた。獲物によっては、落とし穴などの罠も使い、獲物を追うための犬も連れていた。後には火縄銃を使うようになったが、明治30年代からは村田銃(日本製初期・元込め銃)を多く使うようになった。




二、マタギの獲物
 江戸以降のマタギは、普段は定住して農業を行い、冬から春にかけては山に入り、仮小屋を設け、ここに寝起きして狩猟を行っていた。十人前後の集団をつくり、シカリなどと呼ばれる頭目の指揮のもとにそれぞれ役割を分担し、冬眠中のクマの穴を襲ったり、巻狩というクマを取り囲んで捕らえる方法で熊狩りをした。おもに熊を獲ったが、カモシカやサル、シカ、イノシシも獲物とした。

 獣の皮は敷物や衣服に、肉は食料として里の人々に供給するが、特に内臓や角は、医薬品として重宝された。古くは原始時代からだろうが、古代の宮廷においても良く使われた。なかでも熊の胆は、乾燥させて保存し、どんな病気でも欠けらを割ってのむと効果があるとされ、この風習は現代にも伝わっている。
 

 また獣の内臓や角は、丸薬や散薬、軟膏などに製剤され、その種類は多く、平安時代にすでに11種類にも上っており、これらは遣唐使一行が持参したとされる。

 またぎの活動は、江戸時代に五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」によっていくらか衰退したものの、江戸時代後期には南部、津軽、秋田などの諸藩は、むしろマタギを保護して、熊の胆や熊の皮を上納させたり、有事の際の鉄砲集団として利用したりした。



三、マタギと山の神

 マタギには大きく分けて二つの集団があった。日光権現から狩猟免許を受けた日光派と、弘法大師から免許を受けたとする高野派である。このほかにも三派があったとされる。
 このうち日光派では、磐司磐三郎(ばんじ・ばんさぶろう)という日光山麓に住む弓の名人が、日光権現を助けて赤城明神を征服した功績により狩猟を認められ、一方、高野派は、弘法大師が高野山に入ったときに、その地を支配していたものが、大師を先導した功績により殺生の許しを得たとされる。

 

 深山を駆け巡るマタギは、山の神の支配する世界を仕事の場とするため、山の神はもっとも身近な存在であり、狩猟する獣も山の神から賜ったものと意識していた。
 その一方、その神性をおかしたときは、制裁を与える存在として山の神を恐れていた。そのため山入りのときには必ず山の神の祭りを行い、下山のときも感謝の祭りをした。獲物を射止めたときは、山の神に感謝を捧げる祭りを行い、獣の解体のときも呪文を唱えて、獣の霊を他界に送る作法を行った。







『旅の民俗誌』岩井宏實著 新河出書房  2002年