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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。






(306)鍛冶屋・鋳物師


1.タタラ吹き
  日本では鉄は青銅器とほぼ同じ頃に使われている。古墳時代には鉄製の武具が古墳の副葬品として発掘されるし、各地から鉄製農具も出土している。「延喜式」には中国地方から鉄塊や鍬が調(税金)として納められたと記されている。

 中世になると、砂鉄の良くとれる出雲を中心とする中国地方で、新技術が開発されて製鉄は急速に発達した。砂鉄と燃料となる木材を求めて山中を歩き回った。初めは露天で事前の通風を利用して銑鉄を得た。これを野ダタラという。
 

 後には長方形の炉をつくり、中に砂鉄と木炭とを交互に投げ入れ、足踏み式の送風装置で風を送った。この送風装置もタタラとよばれた。踏鞴と書いた。四日間ほどかけて精錬した。

 

 司馬遼太郎氏の「砂鉄の道」には、朝鮮半島でタタラ製鉄が行われ、半島は禿山となり朝鮮半島南端で、「海の向こうに豊かな木材の山がある」といわれ、海を渡り出雲あたりに来て見ると、降雨量が多いため、山には切っても、切ってもすぐに樹木が生えてくる。これで製鉄が伝承された、と書いてあるが、日立金属(やすき工場)の担当者に電話取材したところ、朝鮮半島の製鉄はおおむね鉄鉱石からでタタラ製鉄ではなく、また切ってもどんどん樹木が生えてくることはなく、一帯の樹木を切り倒したら、次の場所へ移動していたと話されていた。製鉄技術を秘密としたから、位置を知られぬよう苦労した事を語っていた。

 

 砂鉄を方法の一つに、「鉄穴(かんな)流しがあるという。砂鉄の含まれている山を崩し、その土砂を水流を利用して谷間に流し、重い砂鉄だけを沈殿させる方法という。
 タタラ師仲間は山内(さんない)という集団をつくり、それぞれ分業で、鉄を生産、加工していた。集団は山を支配する山配(やまはい:工場長)の指揮のもとに鉄を作るタタラ師と、加工する鍛冶屋に大きく分けられる。色々な専門職と、大量の木炭を焼く山子(やまこ)もいた。

 鉄山族ともいうべきタタラ師集団は、良い砂鉄のとれる土地を求めて山中を移動していたが、次第に土豪に雇われて働くようになる。近世には大山林地主のもとに集められるようにもなった。


2.刀鍛冶と野鍛冶
 鉄を打ちたたいて成型し、刀や農具などをつくる職人に鍛冶屋がいる。鍛冶屋も初めは、良質の鉄を求めて山中を漂泊しながら仕事をしていたが、中世になって武士が台頭してくると、武器として刀剣の生産が盛んになり、鍛冶が各地で発達して名工が多く出てきた。
特に鉄の生産地に近い備前や、備中は有名で、たくさんの刀剣が中国に輸出さされるまでになった。

 多くの戦国大名が城下町を建設するのにともなって、武具・刀剣類をつくる刀鍛冶職人を城下に住まわせ、鍛冶屋も定住するようになり、それが今日も、各地に鍛冶屋町の名で伝わっている。(神田鍛冶町など)

 

 室町時代に入ると、鉄の生産量が増え、庶民にも鍬など農具の一部に鉄を用いることができるようになり、刀を打つ事を専門とする刀鍛冶に対して、農具をつくることを専門とする野鍛冶が現れた。

 徳川幕府が成立して平和な時代になると、町の鍛冶屋は人々が日常使用する包丁や鋏や職人達の使う道具をつくるようになり、さらに農村向けの鎌や鉈,鍬先などもつくって、道に面したところに見世棚を設けて販売するようになった。
 一方、村の鍛冶屋は昔のように村から村へ旅をしながら、鍛冶の仕事をし、村のはずれや田んぼの片隅に小屋をつくり、その村で必要な農具をつくったり修理を終えたりすると、次の村へ移っていった。
 
 しかし、やがて村のなかに仕事場兼住居を持ち、一か所に住みつくものも現れた。琵琶湖沿岸の村では紀州からやってきて定住したものが多く、岐阜県や愛知県ではほとんどの鍛冶屋は知多半島から移り住んだという。
 

 彼らは秋の収穫が終わったころ、あちこちの村や家を回って、古鍬を集めては、冬の間に鍛えなおし、翌年、春の耕作の始まる前に各地に届けて回る。このころの鍬は土を耕す先の部分だけが鉄製で、この鍬先を木の台にはめて使う「風呂鍬」だった。これらの鍬先は、各農家が鍛冶屋から買い入れ、何回も打ち直して使った。

 

 そのいっぽうで、「貸し鍬」という慣行もあった。鍛冶屋が農家に鍬を貸し出す制度で、鍛冶屋は、毎年秋に農家を回って貸し鍬を集めると同時に、鍬先だけを持って帰って修理して、翌年の春また貸すもので、新潟県には近年までその習わしがあった。それだけ鉄鍬は高価なものだった。なお、縁日や祭礼のとき、寺社の門前で農具を売る鍛冶屋もいた。市には農具だけを専門に売る「農具市」もあった。



3.鋳物師
 金属を扱う職人には、鍛冶屋のほかに金屋と呼ばれた鋳物師がいて、イモジと呼ばれた。金属を溶かして型に流し込み、武器、武具、像、鐘、農具、鍋、釜などをつくった。
 奈良時代からこうしたさまざまな物をつくる鋳物師がいて、原料を求め、また需要を求めて諸国を移動していた。鎌倉時代以降は、各地に定住したが、京都を始め都市に定住した者は、営業の独占を図るため「座」を結成した。鋳物師としての権威と伝統を誇示するために「鋳物師由来書」をもって全国各地に出かけ、仕事をした。この由来書は関所を通ったり、船に乗るのも自由な通行許可証だった。この権威の下で、生産に必要な燃料や場所、人員を確保し、時には自ら燃料とする炭焼きをすることもあった。

 このため大分県宇佐の山村では、炭のことをイモジと呼び、またカシの木などの堅炭のことをイモジといったりもする。宇佐は、鋳物師の古くからの中心地だった。



4.鍛冶屋や鋳物師の神々
 鍛冶屋や鋳物師は、ときに遠方へ、ときに周辺の諸村落を訪ねて仕事を続けてきたが、共通して信仰した神々がある。
 もっとも深く信仰したのは荒神、稲荷神、金屋子神(かなやこがみ)であった。荒神は竈の神、あるいは火の神として信仰されたので、火を使う職業のものに信仰が厚かった。東北、畿内、九州などそれぞれの一部で盛んである。稲荷神はもともとは食物神、農耕神だったが、鍛冶屋や鋳物師の信仰を集めるようになった。

 

 江戸や大阪では、旧暦の十一月八日に鞴(ふいご)祭りが盛大に行われ、鍛冶屋や鋳物師は稲荷神をまつって、みかんや餅をまいて振舞った。嵐をついて航海した紀伊国屋文左衛門のみかん船も、この鞴祭りを当て込んだものという。
 砂鉄精錬技術を伝えたという金屋子神は、東北から九州まで広く信仰されるが、特に中国地方で盛んである。



『旅の民俗誌』 岩井宏實著 河出書房新社 2002年