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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




 (302)江戸切絵図散歩


 江戸切絵図は沢山出版されていたと思います。その中で池波正太郎氏が解説を加えたものがあり、これが楽しいわけです。書かれている鬼子母神は、きしぼじん、とは読まず、きしも・・・・・・となるなど教えられました。ここは確か”やきとり”で有名だった記憶がありますが、相当に大きな社で、写真にある駄菓子やさんも、私も見た記憶があります。すすきの穂でつくった、ミミズクの玩具も売っていました。
 昔は大田道潅と豊島なんとかが戦をして江古田公園で負けたかと思います。豊島氏の居城は今の区立石神井公園にあったはずです。一冊買い求め、その場所に行ってみるのも楽しい散歩になります。

 

引用開始

 

 江戸川は、川幅十間余もあったといわれ、ずっとむかしは古川と呼ばれていた。
 江戸川は、井の頭の弁天の池が水源である。幕府は、この水を江戸城内に引き込むため、堅固な堰(せき)を築いた。これを目白の大洗堰(おおあらいぜき)とよぶ。その景観は[江戸名所図会]の挿絵にある。
 堰の北面は目白の台地で、崖がそびえてい、南面には茶店が二軒ほど出ている。此処は江戸の一名所だったのだろう。

 ここで、切絵図を(雑司が谷・音羽)図に替えよう。
 江戸川橋から北へ、大通りが真直ぐに伸びている。突き当たりは有名な護国寺だ。
 橋をわたり、すぐに音羽の町へ入る。音羽は護国寺前から江戸川橋にかけて、九丁目まである。
 むかしは、寺や神社の門前町が栄えた。
 まして護国寺は、将軍家の庇護をうけた真言宗豊山派(しんごんしゅう・ぶざんは)の大本山というので、門前町が活況を呈したのは、当然であったろう。道幅もひろい。

 護国寺は五代将軍・綱吉が生母の桂昌院のたのみによって建てた寺だ。はじめは門前町に住む人も少なかったので、江戸城・大奥の老女・音羽(おとわ)に町家を与えたのが、町名の由来だそうな。

 私の小説[仕掛人・藤枝梅安]に、音羽の半右衛門という、香具師(やし)の元締が登場する。小さな身体つきの老人は、護国寺や雑司が谷の鬼子母神(きしもじん)など、江戸城北の寺社と、それいつながる盛り場の物売りや茶店、見世物興行にいたるまで、いっさいの利権を自分のものとしている。
 その他にも江戸の暗黒街で、おそろしいことを知らぬ顔で、やってのける。
 
          

だが、表向きは、音羽九丁目で[吉田屋]という料理茶屋の主人であり、その経営は、十も下の女房“おくら”にまかせているのである。

 さらに護国寺へ近づいて、門前の西青柳町の子育て稲荷のとなりにある茶店[よしのや]は、[鬼兵犯科帳]の中の[むかしの男]につかった。
 「当時、このあたりは江戸市中を外れた旧小石川村のおもかげが濃厚であって、門前に連なる茶店や茶屋も“わらぶき”屋根が多く・・・・・・」
 と私は、あたりの情景を書いている。
 音羽の通りの両側は、いずれも高台で、その谷間のような道すじであり、両側に、いくつも坂がある。
 そうした情景は、二十年ほど前までは何となく残っていたが、いまはコンクリートのビルやマンションが増えるばかりで、前には見えた崖上の邸宅なども見えなくなってしまった。
 このあたりの坂道や、大名の下屋敷は、私の小説では、思いがけない役目を果たしてくれる。
 切絵図の護国寺の西方に、雑司ヶ谷の鬼子母神が絵になって描かれている。
 鬼子母神は、小説や舞台の背景に何度も使った。
 江戸府内でありながら、田園の風趣が濃く、さまざまな人びとの”いとなみ”があるからだ。
 [三河屋お長]という短編も、その一つだ。
 「雑司ヶ谷の鬼子母神は、当時、江戸市中の西郊にあたり、豊島郡野方領であった。
 それはもう、まったくの田園風景の中に、杉、松、槙(まき)、銀杏などの古木が境内にそびえ立ち、門前には”わら”屋根の茶屋、茶店がならんで、名物の芒(すすき)の穂でつくった”みみずく”の玩具や、水飴、芋田楽、焼きだんごなどを売っている。

 そう書いてあるが、麦わら細工や、芒のみみずくは、今も売っている。境内も、すずろに江戸の頃を偲ばせるし、十月八日から十三日までのお会式(法会の儀式)の混雑は大変なものだ。一度、見物をしたことがあるけれど、いまは、どうなのだろう。群がる信者たちが打ち鳴らす太鼓の響(とよ)みが、いまだに耳へ残っている。

 

 絵図の左端、鬼子母神の参道を南へ行く細道を、下雑司ヶ谷町の通りを突っ切ってどこまでも行くと[ジャリバ]と書いてある。さらにすすむと左手に[南蔵院]、右手に[氷川社]があり、すぐに姿見橋へかかる。橋の下を流れる江戸川辺りを東へ行けば、江戸川橋へ出、かまわず、坂道を南へのぼって行けば、高田の馬場へでるのである。

 江戸時代には表札というものがなかった。町名番地も別に家の軒下に明示していたわけではない。大名や旗本の屋敷も同様である。
 だから、江戸の町が広がり、煩雑になるにつれて、どうしても、現在の[東京区分地図]のようなものが必要となってきたのである。国許(くにもと)から江戸の藩邸に出てきた侍は、この切絵図を、みやげにしたり、長く江戸にいるなら、自分の実用として買った。
 


当時も切絵図は高価なものだったらしく、揃えでなく、一枚でも一分ほど取られたという。今の価格にすると、一枚五万円ほどになるだろうか・・・・・・。



江戸切絵図散歩 池波正太郎著 新潮社 平成17年18刷