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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。





(317)江戸期の漂流者
  
日本の船は外洋向けには造られておらず、嵐に弱かった。航海中に時化に見舞われ、無数の和船が遭難し漂流しましたが、幸運にも帰還できた者もいました。その中から日本史に名を残した三人をご紹介します。


一、 ジョン万次郎
 万次郎は文政十年(1827)土佐の足摺岬近くの漁村で貧しい漁師の子としてうまれました。十四歳のとき、漁船に雇われ、天保十二年(1841)に仲間五人とカツオ漁に出ましたが、三日目に突然の大嵐にあい、船は櫓が折れて木の葉のように波頭をさまよい、六日目に現在の鳥島に漂着しました。当時、この島は無人島で、洞窟に入って難儀していたのですが、およそ五ヶ月後に、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のホイットフィールド船長に救われます。船はホノルルに寄港し、他の四人はホノルルに残りましたが、万次郎は船長に連れられアメリカ本土に渡ります。

 万次郎はフェアヘブンで船長の家族に温かく迎えられ、家族の一員として暮らすことになります。アメリカで教育を受け、英語・数学から航海術までを学ぶことができました。万次郎は日本人のアメリカ留学生第一号となったわけです。

 やがて捕鯨船の副船長を務めるまでになり、帰国費用を稼ぐため、折からゴールドラッシュに沸いたカリフォルニアに渡りました。わずか七十日ほどのあいだに600ドルを稼いだ万次郎は、ホノルルに戻って仲間と再会しました。

 四人のうち一人はすでに死亡しており、もう一名はホノルルに残ります。そこで万次郎は①筆之丞と②五右衛門の二名とともに三名で帰国の途につきます。ホノルルでボートを買い、船が琉球の沖に差し掛かったとき、ボートで船を離れ、上陸しました。

 しかし、あちこちで一年半もの間取調べを受けたため、故郷の中の浜に帰り着いたのは、漂流してから十年も経た、嘉永四年(1851)のことでした。

 キリスト教を嫌った幕府は帰還者を厳しく取り調べておりました。長崎奉行、幕府、地元の藩、三ヶ所で吟味、つまり取り調べを受け、これらが現在も資料としてそのまま残され、詳細な記録は日本海洋文学の源になっています。(小説家、吉村昭氏の主張)


 おりしもアメリカの艦隊司令長官ペリーの来航する二年前のことで、幕府でも海防準備やアメリカ事情を知ろうと努力していたため、万次郎は江戸に呼びつけられて、アメリカの様子を語ったり幕府代官の命で蒸気船をつくったりもしました。これらの功績により、万次郎は直参に取り立てられ、中浜万次郎と名乗ります。


 嘉永六年(1853)にペリーが来日したときは、万次郎はアメリカに有利な通訳をするのではないかと疑われ、直接ペリーとの通訳は努めずに、条約文の翻訳をしています。一方で、航海書を翻訳したり、アメリカ語会話の本を著したりし、軍艦教授所教授にも任命されました。


 万延元年(1860)批准書交換のために、遣米使節の通訳として、勝海舟らとボーハタン号の随行艦、咸臨丸で渡米し、ミシン、カメラ、書籍などを持ち帰っています。その後は、薩摩藩のために鹿児島の開成所で航海術を教えたり、土佐藩のために上海に船の買い付けに行ったりし、また、アメリカ式の捕鯨を日本で最初に実施したり、アメリカで得た知識を大いに発揮して、日本の外交、軍事、漁労技術の向上などに大活躍をして、明治31年(1898)、七十一歳の生涯を閉じました。


二、 大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)
 この人については、作家の井上靖氏、吉村昭氏のお二人が小説にしています。
 ジョン万次郎より前になりますが、同じように漂流して異文化を体験し、苦労の末に日本に戻りながらも、日本の社会に貢献できずに生涯を終えた人の一人です。

 それは、万次郎の帰国が、まさに開国を控えた幕府が、外国の情報を必要としていた時期だったのに対し、光太夫はまだ厳しく鎖国政策が採られていたときだったからです。幕府は貴重な情報を活かす事ができませんでした。

 

 光太夫は宝暦元年(1751)伊勢の国、白子に生まれました。天明二年(1782)に千石積みの神昌丸の船長として、乗組員十六人と江戸に向け出航しております。
 ところが、遠州灘で大時化に見舞われ、七ヶ月間太平洋を漂流したあげく、ロシア領のアリューシャン列島の小島に漂着します。
 そこでは先住民と怪獣狩りをして暮らし、四年後にシベリア本土の極東カムチャッカに移ります。極度の寒さと飢えに苦しみ、悩んだ末、二年後、政庁所在地のイルクーツクに着きました。光太夫は即刻帰国の嘆願をしたのですが、当時日本との交流を求めていたロシアは、彼を日本語学校の教師とする意図があって、帰国を許可しなかったのです。

 

 さらに二年後、日本の北辺の自然研究に熱意を燃やしていた帝室科学アカデミー会員キリス・ラクスマンによって首都ペテルスベルグに連れてゆかれ、そこでラクスマンの指導を得てロシア文化を身につけ、女帝エカテリーナ二世に謁見することができました。
 ロシアでは日本との国交が、ピョートル大帝以来の希望であったため、1792年、ラクスマンの次男、アダム・ラクスマンを光太夫送還を理由として、日本に派遣しました。

 しかし、幕府は国交要求を拒絶し、光太夫を引き取ったまま体よくアダムを立ち去らせてしまいます。その一方で、異文化を親しく体験した光太夫を人々の眼から隔離するため、番町薬園に軟禁しました。それ以後、光太夫は三十余年の軟禁生活を強いられ、悲願であった故郷の土を踏むこともなく、異国の体験を多くの人に語ることなく生涯を閉じました。


三、 高田屋嘉兵衛(たかだや・かへえ)
 

 大国屋光太夫から三十年ほど遅れて、同じようにロシアの文化を体験した人に、高田屋嘉兵衛がいます。明和六年(1769)、淡路島に極貧農・弥吉の長男として生を受けます。
 

 寛政二年(1790)、兵庫に移って樽廻船の水主となり、二年後には船頭として長崎や下関などへの物資輸送に従事しました。やがて独立して千五百石積みの辰悦丸を建造し、船持ち船頭となります。翌年には兵庫で酒、塩、木綿、酒田で米を買い入れて、箱函に運んで売り、帰途には箱函で魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売る事業を始め、当時盛んだった北前船の一角に参入します。
 

 そして箱函に支店を開き、蝦夷地と上方間の商品流通に経営の力点を置いたわけです。さらに商才を発揮し、幕府の蝦夷地政策に物資輸送の面で食い込むことにも成功しました。
 卓抜した航海技術を持っていたため、自分の辰悦丸で、幕府の命を受けた探険家・近藤重蔵とともに択捉島に渡り、漁場を開くなど活躍します。
 そうした事もあり、幕府の信頼を得、蝦夷地御用定雇船頭となり、名字帯刀も許されました。
 

 こうして幕府の蝦夷地開発政策と深く結びつくことにより、豪商としてますます成長します。しかも、産物については、厳重な品質管理と計量を行ったため、諸国の
商人たちの信頼も厚かったといわれます。

 

 しかし、その後、北方近海に現れたロシアと日本の樺太・択捉に関する紛争に巻き込まれ、幕府がロシアの軍艦ディアーナ号艦長ゴローニンを幽閉した事に対する報復として文化九年(1812)国後島沖で捕らえられ、カムチャッカに連行されました。
 嘉兵衛はそこでロシア語を覚え、翌年五月に国後島に送還されたのちは、日露両国の交渉調停に尽力し、ついに幕府を説得して、ゴローニンを釈放することに成功します。そのすぐれた能力は、両国から高く賞賛されました。
 

 なお、司馬遼太郎氏が小説『菜の花の沖』の主人公として詳細に記しています。また御茶ノ水にあるロシア正教会のニコライ堂は、高田屋嘉兵衛をしたって日本にやってきたロシア僧が建立したもので、関東大震災で破壊されたものを復元し、国の重要文化財として、現代につながっています。


参考図書:『旅の民俗誌』岩井宏實著 河出書房新社 2002年