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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(318)江戸切絵図散歩・皇居周辺

 


 私は、小学校の五年生になると、東京の地図を買って来て、市電(後の都電)を利用し、東京の市中を巡り歩くことをはじめた。
 むかしの東京の下町で暮らしていた子供は、よほどの用事がない限り、他の土地へは出て行かない。
 それだけに、見るものが、すべてめずらしく、好奇心をそそられ、母が「子供ひとりで危ないから・・・・・・」と、いくら注意しても、やめられなくなってしまったのである。
 とりわけ、皇居周辺の景観のすばらしさは、私を圧倒せずにはおかなかった。まるで外国へでも行ったような気になった。
 いま、皇居の堀端を行き交う自動車の排気ガスを吸い込みながら、流行のジョギングに熱中している人々を見ると、ふしぎでならない。毒のあるガスを吸い込みつつ、健康のための運動をしているからだ。


中略)
 江戸から東京へかけての歴史が、建物と環境において残されているのは、いまや皇居と、その周辺のみといってもよいだろう。これは、皇居で天皇家を中心とした公私の生活と儀式が存在するゆえにこそ、残っているのである。

 このように、むかしは江戸城とよばれた大城郭の中で、人々の生活が営まれている例は、東京のみだろう。
 だが、数年前に、皇室を京都へ移し、皇居のすべてを民衆に開放すべきだ、などというものもいて、遷都には賛成の私も、天皇家まで移転されては、東京が誇る、この建造物も環境も開発の名のもとに破壊されてしまいかねない、だから、天皇家のみは東京に残っていただきたいとおもう。そういう遷都があってもよいではないか。

 さて、五十数年前の、その日のことで、いまも胸の底に残っていることがある。
 その日は、電車で九段坂の上まで行き、堀端の風景を写生するため、私は大きなスケッチ・ブックとクレヨンを抱えていた。
 夏のことで、靖国神社の木立に蝉が鳴き込めていたのをおぼえている。
 皇居のお堀を描くつもりでいた私は、英国大使館前の、みごとな桜並木に心をさそわれて、描き始めた。
 昭和九年か十年のことだ。当時は大使館前の内堀通りを走る自動車も数えるほどだった。白い乗馬服をつけた男が馬蹄の音をひびかせ、大使館の門内に入っていった。
 このあたりで、乗馬服の外国人や陸軍の軍人をみることはめずらしくなかった。
 絵を描いていて気づかなかったが、いつの間にか、背後に人の気配を感じて振り向くと、白衣を着て、眼鏡をかけ、パナマ帽子をかぶった老人がステッキをついて、私が描いている絵に見入っている。
 子供の眼には六十を過ぎた老人に見えたが、もっと若かったかと思われる。
「おじさん。向こうへいってよ」
 私がいうと、老人は、
「どうしてだい? いいじゃないか。もう少し見せておくれ」
 やさしい声で、そういった。
「いやだ。はずかしいから・・・・・・」
「絵描きさんは、はずかしがらないよ」
「絵描きさんなんかじゃない。だから向こうへ行ってよ」
「君は絵がうまいね」
「うまくなんかないよ」
「うまいよ。うまい」
 私は赤くなって汗をかいた。
 すると老紳士が、
「その絵、おじさんにくれないかね?」
「いいよ」
 私は、こういうことにこだわらなかったし、ほめられて、良い気持ちになっていた。
「ほんとうかね?」
私は、その絵をスケッチ・ブックからはがして手渡した。


(中略)
千鳥が縁から半蔵門へ出て、右手を見ると、麹町一丁目から四谷見附までの大通りが、むか
しのままにのびている。どこまでも行けば新宿だ。
戦前は半蔵門をすぎると、堀端の道は大きく曲がって、陸軍省・参謀本部の前へ出た。道は日比谷に向かい、下りになる。
 ここに、三河・田原一万二千石の三宅備前守(みやけびぜんのかみ)の上屋敷があった。だから、この坂を「三宅坂」とよぶ。
 画家として有名な渡辺崋山は、三宅備前守の家老職をつとめ、この屋敷内の長屋に住み暮らしていたわけだ。後年、自分が新国劇のために[渡辺崋山]という芝居を書こうなどとは、夢にも思わなかった。
 

(中略)
 三宅土佐守(みやけ・とさのかみ)・藩邸をすぎると、近江・彦根三十五万石、井伊掃部
頭(いいかもんのかみ)の屋敷となる。此処に立って、皇居の堀を見渡すと、彼方に桜田門
が小さく見える。万延元年(西暦一八六〇年)三月三日の朝、異常に大雪の中を江戸城
に向かう井伊大老の行列が水戸浪士によって襲撃され、大老は首を打たれた。この変事は、小学生の私でも映画や小説でわきまえていただけに、掘割めぐりをするときは、必ず、こ
の場に立って桜田門を望見したものだった。
 井伊邸は、いまの尾崎記念館のあたりになる。その背後の国会議事堂は松平(浅野)安芸守・
中屋敷に相当する。井伊邸について知る人も、ここが、もっとむかしは、かの加藤清正の江
戸屋敷だったことを知る人は少ない。

 天下の将軍となった徳川家康は、この地を加藤清正にあたえた。約三百年も前のことだ。
 そのころ、このあたりは、大小の沼が諸方にあったらしい。
 その二十年ほど前には、日比谷のあたりまで江戸湾の海が入り込み、いまの警視庁の近く
は、海岸だった。
 ゆえに加藤清正は,萱(かや)や枯れ芒(すすき)をあつめ、沼や池へ木材と共に投げ込
み、近くの子供や百姓を集め、
「あそべや、あそべ」
 笛や太鼓を打ち鳴らし、何日も何日も萱や、芒の上で踊ったり、唄ったりさせておいた。地ならしをさせたのだ。加藤清正は、亡き豊臣秀吉に長く仕え、秀吉がいくつもの城を築いたときの経験が豊富だった。清正は傑出した土木・建築の大家といってもよい。
 だから後年、家康から江戸城の石垣や壕などの工事を命じられたときも、同じように鳴り物入りで工事を進めた。他の大名がこれを見て、
「上の御用をつとめるにしては、いささか不謹慎である」
 非難をしたが、清正は平然として、踊らせたり、唄わせたりしていた。これも旧主・豊臣
秀吉のやり方である。
 のちに、江戸を暴風雨が襲ったとき、諸大名が担当した石垣は、雨と風に崩れ落ちてしま
ったが、加藤清正が受け持った石垣はびくともしなかった。土台がすっかり固まっていたか
らだ。
 こうして三宅坂を下りきり、桜田門の前に来て、私がクレヨンで濠端の風景を写生してい
ると、一人の婦人が近寄ってきて、
「坊や、坊や」
 と、いう。
「何ですか?」
「宮城を、写生したりしてはいけませんよ」
 やさしく、たしなめられたことがある。
 この辺で、もう一度、三宅坂をのぼることにしようか。


『江戸切絵図散歩』 池波正太郎著 平成十七年