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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(310)山岡鐡舟と三遊亭圓朝 

 


 怪談噺や芝居噺を得意とした初代三遊亭圓朝(さんゆうてい・えんちょう)は、多くの創作落語をものにして、今風にいえば小説家といっていいが、作品の多くが芝居にもなり、噺は口演速記によって記録され、出版もされた。その間、多くの弟子を育成し、三遊亭一派の中心としても江戸落語の隆盛に貢献した。

 

 圓朝が明治の落語界に残した業績は大きく、それゆえに「大圓朝」ともいわれた落語家だが、この人の墓は、山岡鐡舟と同じく全盛庵という寺にある。
 もちろん、偶然でなく、石塔に鐡舟の書によって「三遊亭圓朝無舌居士」と刻まれていることからもわかるように、圓朝と鐡舟の結びつきは深い。禅の上での師弟関係があった。
 

 二人は若くして出会って交友を重ねた、というわけではない。圓朝が鐡舟を知ったのは明治十年(1877)とされるが、鐡舟より三歳年下の圓朝はこのとき三十九歳、不惑を迎えようという歳であり、既に名声をほしいままにし、落語界に確固たる地位を築いていた。にもかかわらず、このような固い結びつきが生じた、ということは、この遅い出会いが圓朝にもたらしたものがいかに大きなものであったかを物語る。

 

 三遊亭圓朝は、天保十年(1839)に江戸の湯島で生まれた。父は橘家圓太郎という寄席芸人であった。その縁だろうか、七歳のとき寄席に初出演している。九歳で父親の師匠の三遊亭圓笑に入門、住み込みで修行し嘉永二年に二つ目に昇進したが、一時落語家をやめ、商家に奉公したり、歌川国芳の内弟子となって画工の修行をしたりしたが、結局のところ寄席の世界に舞い戻った。

 

 安政二(1855)年には、隆盛する柳派に対して衰微しつつあった三遊派の再興を誓い、名を圓朝と改め、二流の寄席ではあるが初めて真を打つ。この時点で圓朝はまだ十七歳である。三年後、書割の道具を高座に配し、鳴り物を使って芝居の雰囲気を演出する[鳴り物入り道具噺]を始めるようになると大いに人気を得る。しかしこれを嫌った師の圓生との間に軋轢(あつれき)を生じ、それをきっかけに創作だけに専念するようになる。明治にいたって完成する名作[真景累ケ淵:しんけいかさねがふち]の原型もこの頃生まれている。

 

 文久三年(1863)には、仮名垣魯文(かながきろぶん)や河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)などの戯作者や通人が作った[粋興連]というグループに加わって当時の知識人と交流し、元治元年(1864)からは、当時の寄席では最高の舞台といわれていた両国の寄席[垢離場:こりば]で真打をとる。かくして落語界のトップランナーとなった圓朝は、三十歳で明治維新を迎える。

 

 明治に入っての圓朝は、明治五年(1872)には弟子の三代目圓生に道具を譲って自分は扇子一本による[素噺]へと転向、明治八年(1875)の寄席芸人の団体[睦連]の結成に当たっては相談役となり、翌年には[朝野新聞]に漢学者[信夫怒軒:しぶ・じょけん]による漢文の[三遊亭圓朝伝]が掲載されている。まさに貫禄十分といった趣だが、そこに何か満ち足りない浮薄なものを感じていたのだろうか、翌明治十年に山岡鐡舟と出会ってのち、禅道に帰依することになる。

 

 もっとも禅に対する素地はあったようで、十代の頃には異父兄が住持(じゅうじ)をしていた禅寺でともに生活をし、その兄の勧めで座禅に励んではいた。この兄は圓朝が二十四歳のときに三十三歳の若さで亡くなったことから、禅からは遠ざかっていたのだが、明治十年、陸奥宗光の贔屓(ひいき)をうけていた縁で、その父である伊達自得居士の禅学の講義を聞く機会を得る。そこで高橋泥舟と知り合い、泥舟の紹介によって、圓朝は鐡舟と出会うことになる。

 

 かくて前述の通り、鐡舟との交流によって圓朝は禅に開眼し、滴水老師によって[無言居士]の号を与えられる。人格的にも磨き上げられた圓朝はいよいよ芸道にも精進していくことになり、翻案物などにも積極的に取り組む。そして、明治十七年(1884)の『怪談牡丹灯籠:ぼたんとうろう』の出版を皮切りに、圓朝の噺は口演速記として出版され、また新聞に掲載されたりするようになる。おかげで実際に寄席に行けない人も、圓朝の噺を知ることになり、圓朝の名はいよいよ大きくなる。

 

 一方においてこの口演速記は言文一致運動に影響を与えたようで、二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)が文章の書き方を坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)に相談したところ、「圓朝の落語のように書いてみたらどうか」といわれ、それがきっかけで『浮雲』が生まれたと信じられている。圓朝は落語家から表れて、文学や日本語に影響を与えた。この影響は顕著で、その後、著名な日本人小説家で、落語から大きな影響を受けた者が多いのは、偶然ばかりではないだろう。

 

 出会って十年ちょっと、明治二十一年(1888)に鐡舟は没するが、その三年後に圓朝は席亭との軋轢から東京の寄席を引退、上方への出演や新聞への口演速記発表などに活動の場所を移すことになる。圓朝が東京の寄席に再び出るのは、明治三十年(1897)に弟子の代演としてであるが、その二年後に発病、翌明治三十三年(1900)年、圓朝は新世紀を待たずにこの世を去った。明治の新しい日本語に大きな影響を与えた一生だった。


『山岡鐡舟』 全生庵七世 平井正修 編 教育評論社 2007年