感謝しろや支那の歴史認識
以前、現在支那で使われる漢字は殆どが日本製と記しました。日清戦争後に多くの留学生が来日し、日本が苦心して作った漢字を持ち帰ったと書きました。詳しく言うと国も絡んだ話で、この辺りから書いておきたいと存じます。
中国は阿片戦争(1894~95)に敗北し、この国の進歩的知識人たちは、政治体制の改革が必要と痛感します。改革の手本とされたのが、日本の明治維新でした。
康有為という人物が支那の改革に努力しますが、日本の方策がそのまま使われています。また明治天皇の『五箇条のご誓文』などが高く評価されました。最もこの人たちは西太后を中心とする保守派のクーデターで三ヶ月で挫折しましたが、日本の近代思想は何となく根付いたようです。
清朝は義和団の乱(1900)で敗北し、清朝は消滅、一千年以上続いた科挙試験の制度は廃止されました。しだいに明治日本の教育制度を模範として、小学校から大学にいたる新しい学校制度が建設されてゆきます。大量の海外留学生が派遣され、うち多くが日本へと赴きました。これには以下のような理由があったからとされます。
(一) 明治の日本では、漢文の読み下し文章が主流でした。そのため、英、仏、独の主要な学問書はほとんど漢文調の文章に翻訳済みで、中国知識人には、お手の物の漢文知識ですから、大した苦労なしに西洋の文物を理解できたのです。
(二) 日本は地理的に近いため、欧米に留学するより費用などが安くすんだ。そして1905年には、日本が日露戦争に勝利し、明治維新の優れた効果と誰もが認めていました。日本でも知られる文学者の魯迅(ろじん)は、1902年に来日し、のちに東北大学医学部となった仙台医学専門学校で学んでいたほどです。
(三) 1906年ごろの東京には一万人を超える中国人留学生が滞在し、日本側が準備した各種の学校で、短期間の内に日本語を介して欧米の近代知識を吸収しようとしていました。日本の中等教育の速成教育でしたが、高等教育への予備教育も存在しました。
(四) 主な学校を挙げると、陸軍士官学校の予備校であった成城高校と振武学校(蒋介石は1907年から1909年まで学んでいます)、法政(大学)速成科および普通化、早稲田大学清国留学生部、東洋大学警官速成科などで、このほかにも多くの私立の速成教育期間がありました。
このあと、1907年に当時の清国と日本の間で、1908年以後、15年間にわたり、官立(国立)の高等教育機関に中国人留学生を毎年、165名入学させるとの協定が結ばれます。第一高等学校65名(この後各地へ配分)、東京高等師範学校25名、東京高等工業学校40名、山口高等商業学校25名、千葉医学専門学校10名、でした。
この制度を基にして、私立の高等教育機関でも多くの中国人留学生が学ぶことになります。たとえば、文学者であり政治家でもあった郭沫若(かくまつじゃく)は、1913年に来日し、第一高等学校予科から岡山の第六高等学校さらに九州帝国大学医科に進みました。中華人民共和国の国務院総理であった周恩来は、1917年に来日、東京の予備校で学んだ後、1918年に高等師範と第一高等学校の受験に二度失敗しました。ゆえに1919年には帰国を決心し、途中で京都の嵐山を訪れ、「雨中嵐山」の詩をのこします。現在も嵐山に詩碑があるとか。
周恩来はこの後フランスに留学して共産主義者となり、支那の歴史に大きな影響を残すことになります。日中が国交を回復するとき、田中角栄氏が「ご迷惑をかけて」といったのにひどく立腹したというのは良くわかりません。日本語と支那語、英語などの相違はわきまえていた筈で、この人はもっと勉強すべきだったのでしょう。
1921年に上海で成立した中国共産党の中心人物としての李大劉は、1913年から1916年まで早稲田大学に留学していました。そして帰国後の1918年には北京大学の教授兼図書館長となっています。このひとはマルクス主義に関する指導的な論文を発表することになるのですが、この基本的知識は、日本語訳されていたマルクスの著作からでした。また、中国共産党の最初の指導者となる陳独秀は、1910年11月に日本に私費留学し、東京専門学校(早稲田の前身)に学び、洋書→日本語訳→中国語訳 など多くの文献から思想的刺激を受けたといわれます。すべて和訳からでした。
中国近代史上の著名な人物への日本からの影響を述べましたが、反対側にいた清朝を打倒しようとした孫文を中心に東京を策動の中心地としていました。同盟会が成立したのは1905年の事で、中心となったのは留学生達でした。陸軍の留学生だった蒋介石は、1907年に同盟会に入会しています。
中国近代史の最大の立役者の毛沢東は、海外留学の経験はありません。しかし1937年から1938年にかけてロンドンとニューヨークで出版されたエドガー・スノー『中国の赤い星』の中で、最初に学んだ故郷の高等小学校を懐かしみ、「新しい学校で私は自然科学、西洋の学問の新しい課目を学ぶことができました。・・・・・・・教師の一人が日本から帰った留学生で、・・・・・・私はかれが日本のことを話すのを聞くのが好きでした。かれは音楽と英語を教えました。かれの歌のひとつは日本の歌で、『黄海の海戦』というのでした。・・・・・・そのころ私は日本の美を知り、感じ、ロシアに対する日本の勝利のこの歌の中に、日本の誇りと力の何物かを感じました」と述べているそうです。
参考:http://1000ya.isis.ne.jp/0188.html
毛沢東はスノーに「黄海の海戦」の歌詞を披露しているが、その内容は自然への美の賛歌であり(明治時代に流行した歌曲「美しき天然」の歌詞と酷似している)、黄海の海戦は日清戦争での海戦であり、日露戦争時のことではない。おそらく毛沢東の記憶の中で幾つかの日本の歌が混在してしまったのだと思われるが、少年の日の毛沢東が、日本留学した教師を通じて新興明治日本の息吹を感じ取り、あこがれたことは事実であろう。毛沢東がこの後1913年から5年間学んだ湖南省立第一師範学校は、日本の教育制度を模範とするものであった。後に日本に対する記述とは、距離がありすぎて不思議です。
中国の高等学校や中学校の教科書では、中国への日本の大きな影響や役割、事実に触れているものはない。多くの留学生の存在と、日本からの文化的影響に関しては、全く記述がない。また、孫文が日本の東京で同盟会を組織したことは記述されているが、会員となった多くの留学生には全く触れていない。
支那の歴史教科書の偏った記述は、中国共産党が日本に向かって主張する数々の「歴史認識」の内容が、歴史事実を正確に把握していない半ば「暴言」であることを示唆している。
参考図書:『歴史の嘘を見破る』中嶋峯雄編 文春新書 2006年
