(312)落語の始まり
落語家で、かつ落語研究家の桂文我(かつら・ぶんが)氏は分かり易く、明快な落語についての説明が優れているが、著著の『落語「通」入門』の中で「噺家の元祖は誰ですか?」としばしば聞かれると書かれている。
そうはいっても、「はい、それはこの人で・・・・・・」とハッキリいえないのが正直な所と書かれ、この人は正直な方と信用できる。噺にオチをつけるのが落語であれば、縄文時代からあったとも言えますが、記録から「噺家第一号」となると、いまから300年以上前の京都で活躍した「露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)」の名を挙げるのが一番としています。外にもいろいろお出でなのですが、この方がまず正解だろうとのことです。
京都で生まれた落語
露の五郎兵衛は寛永20年(1643)に生まれたとされますが、その前年に大坂で井原西鶴が生まれています。戦乱の時代も過ぎて庶民の生活も安定し、民衆は娯楽を求め巷に溢れ出した頃、徳川綱吉の御世の延宝年間に、京都の四条河原、天満宮など人が集まる場所や仏事祭礼のときに現れて「辻噺(つじばなし)」を始めたとされます。
このように野天で落語を演じることを「辻噺」といいます。もともとは仏教の説明などを分かり易く説き聞かせるものでしたが、露の五郎兵衛はこの説教に滑稽さを加えて「辻噺」に変化させたといわれています。台や床机の上に座り、手前に置いた本を広げて扇子を片手に語ったといいます。あるときは机も置かず、はんじもん、という今でいうクイズらしきものを演じ、聴衆が「なるほど、面白いなあ」と喝采して投げる銭をかき集め、それで暮らしを立てていました。
話の内容が説教臭くなると投げ銭が集まらないため、笑いを絡めた猥雑(わいざつ)な話をすることもあったようですが、それが当時の文人の興味を引き、宝井其角(たからい・きかく)らの興味の対象となり、松尾芭蕉にも面白さを紹介したといいます。
松尾芭蕉は、露といえば寂しい秋を連想させるのに、陽気な『露』が現れた。これからは『露』の扱いに注意が必要だ、と面白がったとされます。後には常子内親王のような高貴な方の前でも口演し(元禄12年・1699)、京都で絶大な人気を得て、其の頃頭を丸めて僧侶に戻り「露休(ろきゅう)」と名乗りました。
元禄16年に61歳で没しましたが、遺稿集には『按摩炬燵』『道具屋』など現代に残る演目も含まれているそうです。
弟子らしき者もいたようですが、名前を継ぐほどの優秀な後継者はいなかったようでその後は誰も人気を得ることはありませんでした。
大坂で生まれた落語 初代米沢彦八
露の五郎兵衛より少し遅れ、天和年間(1681~1684)頃から大坂の生玉神社(いくたまじんじゃ)や道頓堀、天王寺などで辻噺を行ったのが、初代米沢彦八でした。
この人の最初の頃の詳しいことは全くわからず、生まれ年も、辻噺を始めた年号もハッキリしません。もしかしたら京都で露の五郎兵衛の辻噺を見て、「わしも大坂でやってみよかいな?」と思ったか、自分の思いつきで始めたものか。ただ、貞享元年(1684)に第一作品集の『軽口男(かるくちおとこ)』を刊行していて、露の五郎兵衛と米沢彦八には二、三十歳くらいの年齢差があったと思われます。
大坂で米沢彦八が人気を集めたのは、生玉神社の小屋に本拠地を定め「当世仕方物真似(とうせいしかたものまね)」の看板を掲げてからですが、「仕方物真似」は身振りや手振りがタップリ入る物真似で、歌舞伎を真似て演じたり、身近に起きた事件などを派手に楽しく再現する芸でした。
小道具は大黒天がかぶっているような周りが膨らんだ丸い形の「大黒頭巾」や、普段着に用いられた被り物や、菅やわらで編んだ「編み笠」や「湯飲み茶碗」などを使用しました。
当時の江戸、大坂、京都の風俗を「鳥羽絵」(平安時代の『鳥獣人物戯画』のような滑稽洒脱な絵)で表現した『鳥羽絵三国志』(享保五年)に、米沢彦八の物真似が描かれ、それには「生玉、よねざわ彦八、かほ見せ、かほ見せ」「評判、評判」などと書かれているそうです。
米沢彦八の十八番は、大名の姿や行動を真似ることだったようで、鳥羽絵に描かれた本陣の表情から
「どうです?面白いことやってますやろ。わたいも楽しゅうて仕方がおまへん。皆で盛り上がりまひょ!」という楽しそうな声まで聞こえてきそうだといいます。
大坂の生玉神社で絶大な人気を集めた後は各地の興行にも招かれ、正徳四年(1714)の頃からは名古屋の興行師・喜太郎の手で「当流のおとし咄」の看板を掲げて大勢の人を集めましたが、当の彦八が急死して喜多郎は大損をしたといいます。
没した日がハッキリわかるのは、尾張藩の下級武士朝日文左衛門が丹念に綴った『鸚鵡老中日記』という日記にも記されていたことにもよるとか。この方は『御畳奉行』が出版されていますからお読みになった方も多いと思われます。
彦八の活躍は当時から高く評価され、「軽口ばなし」の別称に「彦八ばなし」が定着していたようで、もっと後には「彦八」が噺家の別称になっていたとも言われます。関西では「彦八ばなし」の呼び名が明治の末頃まで使われていたようです。
また各地に残る民話の主人公「彦一」や「彦七」の名は、「彦八」の名が変化したとも考えられ、関西だけではなく全国に影響を及ぼすほどの大きな存在だったのでしょう。
刊行された本には今日も演じられる『寿限無(じゅげむ)』、『貧乏神』などといったお馴染みの演目を見つけることができます。
現代、上方落語とは大坂落語を意味しますが、落語の発生は京都落語と大坂落語で成り立っていたことから見て、京都落語の元祖が露の五郎兵衛で、大坂落語の元祖は初代米沢彦八といっても間違いないでしょう。初代が没した後は生玉神社の境内から噺の場はなくなり、大坂で名前を継ぐ者は現れなかったといいます。
二代目米沢彦八
初代が没してしばらく経った享保七年(1722)頃、京都に二代目米沢彦八を名乗る者が忽然と現れました。生まれた年や初代との関係などは全くわかりません。
二代目米沢彦八は祇園、北野、東寺、四条河原の夕涼みの場などに来て、藍で染めた幟(のぼり)を立て、刀を前に飾って威厳を示しながら、辻噺を語ったようです。これらの噺集
が発刊されたのは八代将軍、徳川吉宗の時代でした。
鹿野武左衛門(しかの・ぶざえもん)
露の五郎兵衛と米沢彦八が上方落語の元祖といえますが、江戸でもほぼ同時期に鹿野武左衛門という江戸落語の元祖が現れました。この名前は芸名だったらしく、天和三年(1683)に刊行された「鹿野武左衛門口伝ばなし」の序に名前を「志賀武左衛門」と記しているので、こっちが本名だったのでしょう。
詳しいことはわかりませんが、どっちにしても上方生まれだったようで、露の五郎衛門よりも六歳下で、慶安二年(1649)生まれといわれては居ます。
上方生まれの武左衛門が,何故に江戸で噺を始めたのか・・・・・・。
これは、研究者で著者の桂文我氏は「私の推測では、京都で露の五郎兵衛の辻噺をみたのではないでしょうか」といています。「これは面白い。わしもやってみたいけれど、京都でやったらこれらの男には太刀打ちできん。そうや、江戸へいってやったろ!」と考え、江戸に下ったように思われます。
とにかく三十歳頃に江戸へ下ると、天和元年(1681)に堺町で暮らし始め、元禄元年(1688)には長谷川町の浮世絵師・古山師重の隣家に移ったといいます。もともとは漆細工の塗師でしたが、延宝末年頃から中橋広小路辺りで、往来に葦で編んだ簾(すだれ)で囲った小屋を拵え、そこで噺を演じ始めました。
当時の江戸というと、すぐに江戸っ子の「ベランメロ調」を思い出しますが、当時は全国各地から人が集まり、その結果各地の言葉が氾濫し、「江戸っ子言葉」に統一されていなかったようで、武左衛門も「上方弁混じりの江戸言葉」で噺を演じたものと思われます。後に刊行された噺本にも、そのような言葉を見ることができるそうです。
極端分かり易くした例では「冗談いっちゃ、あかんがな」に近いような、東西の言葉が入り混じった不思議な言い回しをしていたようです。
往来で噺を演じる場合、露の五郎兵衛との大きな違いは、小屋(簡素ではありましたが)の中で演じたことだとされます。もちろん推測ですが、京都で露の五郎兵衛の噺に接したとき、周囲が雑然として話も聞き取りにくかったため、部屋の中か、周囲を囲うたら噺に
集中できたのだと思います。
また、鹿野武左衛門は往来で演じるだけではなく、「座敷仕方咄」という、各地のお座敷で身振り手振りを交えたものも演じたようで、残された絵から三味線と鼓を持った二人が描かれています。落ち着いた雰囲気で噺を演じながら、短い落とし噺のほかに、江戸の土地柄を考え、浪人、役者、吉原など実在の地名や人名を使ったリアルな噺とし、筋も追いやすくしたようです。
上方は派手に演じて、江戸はじっくり話し気風ができていたのではないでしょうか。
もう一人、気になる存在は浮世絵師、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)配下の石川流宣(いしかわ・とものぶ)でした。流宣らは、集団で噺の作り手となっていましたが、自身が刊行した『正直噺大鑑』のなかで、「壱がおち、弐が弁舌、三がしかた」と、噺の奥義まで説明しています。彼ら作り手集団の成果は『町内の若い衆』の原話が『人の情け』の題でのこされています。
あるとき江戸でこれらが流行ります。ところがコレラが突然に流行し、その結果いろいろ
あって、皆が官憲に検挙され、無関係の鹿野武左衛門までが島流しにあい、江戸の落語は衰退します。
落語といえば江戸が中心と思いがちですが、本当は京都・大坂の上方から始まり、江戸では何となく運が悪く発展しませんでした。落語の最盛期は明治まで待つことになります。
『落語「通」入門』 桂 文我著 集英社新書 2006年
