(313)江戸の実録・珍談奇談
時は幕末、外神田の偉い人が通るほどの道に、ムシロいっぱいに古本を並べて商うひとりの老爺がいた。この爺さん、“御記録本屋”藤岡屋由蔵で、日がな一日、素麺の箱を机にして黄半紙に何事かを書きつけ、吹き付ける砂塵の中で悠然として筆を休めることがない。
この集大成が『藤岡屋日記』である。珍談・奇談の宝庫であり、世相、風俗、政治情貴重な記録。其のなかから話の種になりそうなものをご紹介する次第。
猫の恩返し
文化十三年丙子(ひのえね)年の三月頃のことだが、深川の時田喜三郎という富家の飼い猫に関する話。
この家に毎日出入りする近所の魚売りの利兵衛は猫好きで、魚を売りに行くたびに、魚を少しずつこの猫に与えていた。そのうち利兵衛は、体の具合が悪くて魚売りにも歩けず、もともと貧乏暮らしなので朝夕にも困る有様。近所のことゆえ、時田の家あたりでも噂が広まった。
すると、ある夜のこと、魚屋へ一匹の猫が入ってきた。見れば時田の猫である。良くきたなあ、とありあわせの餌を食べさせると、猫はくわえていた一両小判をそっと置いていった。利兵衛は不思議に思ったが、差し迫った入用が多いので、その金を取りあえず使って、一息ついた。
一方、時田家では金一両が紛失したので家内のものを吟味し、召使らも迷惑をこうむった。そんな折からまた、よそから金十三両が入金した。紙に包んでおいたその金を、猫がくわえて駆け出したので、皆で追いかけると、紙包みだから紙だけくわえて、金は道に落としてそのまま走って逃げた。憎いやつだ、この間の一両もこいつの仕業だ、泥棒猫め、と、皆でよってたかって猫をたたき殺してしまったというのである。
さて、魚売りのほうは、先の一両のお陰で商売の元手もでき、病気も全快したので、久々に商いに出た。まずいつものように猫に魚をくれてやろうと思って時田家を訪れると、あの猫は金をぬすんだ泥棒猫だから、打殺したと、先日来のいきさつを話され、魚屋も、さては猫があの一両の金をくわえて来たばかりか、後の金も持ってこようとして殺されたのだとさとり、ふびんなことをしたと思い、主人の喜三郎に向かい、猫が一両くわえて来てくれたものに相違ないと、しみじみ物語った。喜三郎も感心し、回向院の水子墓の脇に、小さい猫の墓を立ててやった。その墓には、正面に値善畜男と彫りつけ、脇に時田喜三郎猫と記された。(巻三)
『江戸巷談 藤岡屋ばなし』 鈴木棠三 ちくま学芸文庫
