江戸老人のブログ -21ページ目

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(339)芸者が人妻になるとき


泉鏡花の妻 泉 すず


泉 すず(1881~1950)

 泉鏡花夫人。泉鏡花の名作『婦系図』のモデルとなった女性。有名なセリフ「切れるの別れるのって、そんなことは、芸者のときに云うものよ」といった女性である。はたして本当にすずがこういったかどうかは不明だが、周囲の反対をおさえて鏡花と結婚し、賢婦人として夫を支えた。


 かりに、あなたの息子が、「ぼくは、芸者と結婚します」といったらどうしますか。「ばかやろ、十年早い」と叱り飛ばすか「わかった。そのかわり、おまえんとこで毎晩、三味線をひいて酒を飲ませろ」とひらきなおるか、のどちらかでしょう。いまの芸者は自立した職業で、好きな男と結婚しますが、明治時代の芸者はお金持ちが囲うもので、粋な妾宅を買い与えて、生涯の面倒を見なくちゃいけません。相当の度量と財力が必要でした。


 若くして芸者と結婚する男は、八方やぶれの怪人芸術家か、快男児の起業家か、尾崎紅葉クラスの天才小説家ぐらいでしょう。あるいは裕福な家のボンボン、ヒモ生活をめざすやくざ者あたりで、いずれにせよ、なまはんかな覚悟では、できません。


 すずは神楽坂の芸者で、桃太郎という名でした。すずの母も芸者で、豪商の妾でしたが、すずが、五歳のときにその商人が破産して芸妓(げいぎ)屋に売られました。泉鏡花は、二六歳のとき、十八歳の桃太郎と会ったのです。師匠の尾崎紅葉が主催する硯友社(けんゆうしゃ)の新年宴会のときでした。

 鏡花は十七歳で金沢より上京して、十八歳で紅葉宅の玄関番となって住み込み、小説家としてようやく一本立ちしようというときでした。

 紅葉がひきいる硯友社は、石橋思案(しあん)、丸岡九華、山田美妙(びみょう)、巌谷小波(いわや・さざなみ)川上眉山(びざん)、江見水蔭(えみ・すいいん)といったそうそうたる文士の一大勢力です。


 その頃の鏡花は硯友社の下ッ端のぺえぺえで、新年会の席ともなれば、居並ぶ大物文士の末席でおとなしくしていました。十八歳の桃太郎も、芸者の中では一番の下ッ端だから、すみのほうにチョコンと坐っていました。

 お互いがミソッカスであったこともあり、鏡花はいっぺんで見そめてしまったんですね。


 いささかお金が入ってきた鏡花は、牛込神楽坂二丁目二十一番へ転居して、師匠の紅葉に内緒で桃太郎と同棲生活をはじめました。そのことを知った紅葉は怒りまくって、「別れろ」と命じました。

 紅葉から見れば、手塩にかけて育てた鏡花が、少しくらい売れたからといって、芸者と同棲するなんて、とんでもないことでした。人気作家の紅葉には妻がいて、妻とは別に神楽坂一番の名妓を妾として囲っていました。その地獄耳の芸者さんが「ちょいと、桃太郎が、おたくの鏡花さんと暮らしてるんだって」とばらしてしまった。

 紅葉は生活者としては常識人で、「妻は普通の家庭の娘を貰って、お金をもうけたら芸者を囲う」という考え方でした。そのため、鏡花をきつく叱責しました。そのときの様子は、『婦系図(おんなけいず)』で「俺を棄てるか、婦を棄てるか・・・・・・」というセリフになりました。

 親分の紅葉から、こう言われたンじゃ、鏡花は女を捨てるしかありません。

 そして湯島の境内で桃太郎に「別れてくれ」というと、これまた有名なセリフ「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時にいうものよ・・・・・・」と切り返されるのです。


 紅葉は、桃太郎を呼びつけて手切れ金として十円を渡しました。しかたなく桃太郎は同棲をやめたものの、鏡花とは密会を続けていました。

 紅葉が、その半年後に病没したので、二人は晴れて結婚することになります。鏡花は、別れさせられた悔しさを忘れられず、『婦系図』を書くにいたったのです。


 鏡花は、九歳のときに二八歳の母親を失いました。母親の名はすずで、桃太郎もすずという名でした。亡き母への想いが、同名の妻へ重なりました。鏡花は幽霊や化け物好きで、本当にいると信じておりました。


 そういう事情を知りつくして魔法をかけるのが芸者の念力という者で、鏡花という彫金細工の妖怪(ようかい)をよくぞ手なずけました。

鏡花は、奇人を通りこしたわがままな性格で、狂想の人です。日々を冥界に暮らす天才であって、食物異常嫌悪の病的観念の中に生き、バイ菌をきらうあまり、煙管(きせる)の吸い口にもキャップをはめたほどです。(大根おろしを熱湯消毒したという)

 階段の上段、中段、下段に三枚の雑巾を用意するほど執着性が強い。こういった男とは、フツーの女性は、まず、生活ができないと思われますが、すず夫人だからこそできた。


 鏡花は紅葉に拾われなかったら、発狂するか、自殺したか、どちらかであったでしょう。その狂気と日常のはざかいのぎりぎりの接点で、青白い火花の小説が成立するのです。

 鏡花の机の横には麻耶婦人(まやぶにん:釈迦の母)の像が置かれていました。夫人像が悪霊をふうじると信じていました。とすると、桃太郎という芸妓名が、「鬼を退治する妻」ともうつったのかもしれません。

 原稿用紙の前には神棚に供えるお神酒徳利がおかれていました。酒を硯に入れて墨をすり、悪霊を追い払い、こういった日常生活の奇行ぶりは、マニアックな鏡花ファンを喜ばせるに十分でした。


 すずは、鏡花が狂想にとらわれると、すべて、それに従って、鏡花を助けていきます。『婦系図』で、師より「俺を棄てるか、婦を棄てるか・・・・・・」と迫られたものの、その師と女によって生かされたのです。


 鏡花はすず夫人にぞっこん惚れていて、食事はすず夫人がつくったものしか食べず、ほとんどの旅にすずを同行させました。

 麹町の家には、紅葉の顔写真を飾って、毎日、すず夫人とおがんでいたのです。恩と恨みは表裏の感情で、この世の不思議さをわかっていたすず夫人は、鏡花と一体に生きたのです。





引用図書:『文人悪妻』嵐山光三郎著 新潮文庫