江戸老人のブログ -15ページ目

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



(345)江戸の色事仕置帳


私娼の発生

 「売春防止法」により売春は法律上禁止されているが、さまざまな風俗産業が営業を続け、また自由恋愛とか援助交際という名で、金品の授受に基づく性関係はいたるところに成立した。とくに中・高校の援助交際が問題となって、1999年(平成11)に、「児童買春(かいしゅん)・児童ポルノ禁止法」が施行された。売春をした者でなく、買春をした者・売春の斡旋をした者が処罰されるという点では画期的な法律だ。

 

 この法律で児童というのは十八歳未満である。この法律は「児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害・・・・・・云々・・・と児童を守ることが目的だが、「自分の体を自分の好きにして何処が悪いのよ?」と言い放つ中・高生に社会通念や常識的な性道徳を説いても通用しない。

 もともと売春は当の両者の合意に基づく関係なので、単純には犯罪といえない。だが、そこに法律を設けて犯罪と定めれば処罰が可能となり、江戸時代以来、その通り行われてきた。

 

江戸時代には売春を取り締まる理由は単純明快だった。幕府は遊郭を公認し、遊郭での売春だけを許可して、それ以外の岡場所(おかばしょ)などでの売春をすべて違法行為とした。しかし違法ではあっても、取り潰すことまではしない。江戸は単身男性のひどく多い町であり、幕府公認の遊郭だけでは彼らの性的需要に応え切れなかったからだ。

 

加えて、遊郭とともに岡場所も幕府にとっては金のなる木であった。町奉行所は一年に二〇〇〇両から二五〇〇両を吉原と深川などの遊所から上納させて、この金を市中取締りに使っていた。




男ばかりの新開地・江戸

 何処の誰が身を売って捕まり、どんな処罰を受けたという個々の話は少ない。幕府の隠売女(かくればいじょ)に関する記録は少ない。例外的にいくつかの裁判例を残すだけという。



 風俗営業は強大な軍事力にくっついて動く。徳川家康が1590年(天正18年)、八月一日、これを「八朔の日(はっさく)」として記念日にしているが、この頃の江戸は、江戸城を築く丘陵台地のすぐ下にまで海が入り込んでおり、100戸ほどの集落があるだけの貧漁村だったという。

 大勢の家臣団が移住し、その後を追って商工業者が多数流入した。その中には、1591年に江戸で銭湯を開業する[伊勢与一]がおり、のちに遊郭開業のリーダーとなる[庄司甚右衛門(しょうじ・じんえもん]も品川の鈴が森で茶店兼娼家の営業を始めた。

 

この頃の江戸の人口はわからないが、八代将軍吉宗の1721年(享保六)のとき全国国別男女人口調査を行った結果、江戸の男女比は10対1から、ようやく2対1になったという。(東京都江戸東京博物館編『図表で見る江戸・東京の世界』



 この数字には武士と寺社の門前に住む人は含まれていない。江戸は武家の町といわれ、町人と同じくらい武士が暮らしていたから、武家を含めた総人口は100万を超える世界最大の都市であった。武士の大半は単身赴任の諸大名の家臣、また町人もほとんどすべて男性でかつ独身だから女性が少ない。よって江戸の売春あるいは性犯罪については、男女人口の極端なアンバランスを考えておかないと不正確となる。

 またこの100万の男女は、だいたい20代から40代でしめられ、相当に不自然な都市ができたのであり、幼児から老人までが暮らす平穏平凡な都市になるまでには数世代が必要だった事はいうまでもない。


銭湯と遊女屋のにぎわい

 江戸の風俗業で最初に賑わうのが銭湯だった。家康入国の翌年に[伊勢余市]が、いまの丸の内辺りに開業した銭湯は、その後各地に続々と建てられ、20年もすると営業スタイルもガラリと変わった。

 「今は町ごとに風呂がある。鐚銭(びたせん:粗悪銭)15文、20銭で入浴できる。湯女(ゆな)といって、なまめいた女たちが20人、30人と並んでいて、垢をかき、髪を洗ってくれる。その中の容色の優れた女たちが、湯を「どうぞどうぞ」、と持ってきては戯れかかり浮世の語りをする。振り向いて女に笑いかけると、女たちも媚びで男心を迷わす。

                (三浦浄心『慶長見聞集』)

 慶長期の江戸銭湯は、天正期の銭湯とは違って湯女を沢山そろえ、風俗営業化している。「湯女風呂(ゆなぶろ)」といわれ、蒸し風呂だ。夜になると飲み屋に変わり、湯女たちも綺麗に装って酌をし、売春もするようになった。

 一方、娼家も麹町や鎌倉河岸などに、それぞれ十数軒から二十軒ばかりが固まって営業しており盛況だった。[庄司甚右衛門]は娼家の主人におさまっていた。


このころ幕府は湯女風呂や娼家に対して、格別に取り締まることはなかった。好きなように営業させている。男が圧倒的に多い江戸では、風俗営業は犯罪や騒動を抑止するガス抜き効果もあった。江戸では風俗産業は収益の高い成長産業であり、江戸市中に増殖していった。娼家と湯女風呂の共存共栄が壊れるのは、庄司甚右衛門らの遊郭開設によるものだった。



公娼制度が私娼を生む

 庄司甚右衛門は、1612年(慶長17)、同業者とともに幕府公認の遊郭設置を陳情した。そのさい、江戸中の娼家を一ヶ所に集めて営業することのメリットを三つあげている。

 遊郭が一体となって客を長逗留させず、一日一夜で返すから、遊び客が家業を怠ることがない。

 悪辣な拉致、かどわかし、人身売買によって遊女を集めることが珍しくなかったが、遊郭が協力して、そうした非道を防止できる。

 犯罪者や怪しい者が入り込んでも、監視が行き渡り、犯罪を未然に防げる。



庄司甚右衛門らは営々と築き上げた自分たちの利権を、新参者や他の風俗業者から守りたかった。幕府も娼家が市中に散在するより、一ヶ所に封じ込めた方が、治安維持として得策である。幕府は1617年(元和三)甚右衛門らの願いを認めて遊郭の開設を許可。日本橋葺屋町東側の二町四方、今の中央区日本橋人形町一帯を下げ渡した。当時は葦が生い茂る潮入りの地で、初めは葦原(あしはら)と書いたのを、縁起をかついで「吉原」とした。許可に付き幕府は次のような条件をつけたという。




 傾城町(吉原)のほかで、遊女商売をしてはならない。遊郭の囲いの外に遊女を引き出して商売をすることは、一切禁止。

 遊女を買って遊ぶものは、一昼夜以上長逗留してはならぬ。

 遊女の衣装は華美なものは一切だめ。(そのときは)

 遊郭の家造りは美麗にしないこと。

 武士・町人風のものに限らず、怪しいものが徘徊していたら、住所を確かめ、それでも怪しかったら町奉行所に訴えること。(「新吉原町由緒書」)



この中で重要なのは最初の一条で、幕府は娼家営業を遊郭の遊女屋のみに許し、公娼制を宣言した。その結果、初めて禁止・処罰の対象となる「私娼」が生じた。彼女らは公認の遊女に対して、「隠売女(かくしばいじょ)」と呼ばれた。また遊郭が「本場所」といわれるのに対して、隠売女の営業する地域を「岡場所(おかばしょ)」とよんだ。この後、町奉行所の職務に隠売女・岡場所の取締りという果てのない役目が加わった。




引用図書:『江戸の色事仕置帳』 丹野 顕 集英社新書