(246)ロシア対馬を不法占拠
18世紀の日露関係について書きます。毛皮商人や軍隊など帝政ロシアの勢力が、カムッチャッカから千島列島へと南下、その結果、越冬に必要な資材・食料を手近な日本から入手したいと交易を望んだ。寛政4年(1792)ロシア使節ラクスマンが、漂流民・大黒屋光太夫らを乗せ、根室に来航して通商を要求した。幕府は光太夫らを引き取ったが、通商交渉は長崎でと【長崎入港許可証】を与え、ラクスマンは満足して帰国した。
文化元年(1804)レザーノフが長崎に来航、先の入港許可証を示し通商を求めた。このときも漂流日本人を連れていた。幕府は露側を半年またせてから要求を拒否した。頭にきたレザーノフは、部下に命令、樺太や択捉(えとろふ)を攻撃した。幕府は東北諸藩に出兵を命じ、やる気満々で迎撃準備を整えた。レザーノフの攻撃は国家意思ではないから、ロシア側は日本の戦意を知らず、千島列島周辺を測量、国後(くなしり)に上陸したゴローニンらが日本に捕われた。
前後が乱れるが、この体験を書いた『日本幽囚記』は鎖国下日本の貴重な資料として諸外国でベストセラーとなった。ゴローニン捕縛に対抗し、捕われなかった一行の将校リコルドが高田屋嘉兵衛(たかだや・かへい)を捕縛、カムチャッカで一冬を越し、嘉兵衛の熱心な説得でリコルドも了承し、捕虜交換で解決、その後は日露間にトラブルはなかった。
嘉永6年ペリー来航の一ヵ月後、ロシア使節プチャーチンが長崎に入港、その翌年、日露間に「日露通好条約」が締結された。その折、伊豆下田で安政群発大地震のひとつに遭遇、津波でプチャーチンの軍艦が壊れ数日後に沈没、ロシア側は兵士と医師団が下田被災民を助け、軍艦沈没のときは下田住民が積荷拾集に尽力、また日露両国の協力で、下田の戸田(へた)で小型西洋式帆船を造り、プチャーチンが戸田号と命名し、使節一部は帰国した。
この後、文久元年(1861)ロシアは和親条約や通商条約を締結に関らず、戦略上の都合で軍艦ポサドニック号を日本海に派遣、対馬の一部を不法占拠した。詳細は以下のごとくだった。
九州と朝鮮半島の間に横たわる対馬海峡を、西水道(朝鮮海峡)と東水道に割く対馬は、日本海と東シナ海とを結ぶ交通の要衝(ようしょう)だ。寛政期以降、対馬にも外国船が多数現れ、対馬藩は防備を強化したが、日本開国で対馬近くでの異国船はさらに増加した。
対馬はロシアにとってサハリン(樺太)や沿海州などから、東シナ海に進出し、また帰港するため通過せざるを得ぬ重要拠点だ。逆にロシアの南下、すなわち中国進出を阻止したいイギリスは、対馬付近でロシアをくい止めたい。日英両国にとってここは最重要拠点だった。後に日露戦争の「日本海大海戦(世界では対馬沖大海戦と呼ばれる)」がここで起きている。
このような背景があり、安政6年(1859)4月中旬、イギリス軍艦アクチオン号が、対馬の尾崎浦に来航、近海を測量し5月初旬に去った。アクチオン号は対馬藩に衝撃をあたえ、長崎奉行所に幕府指示を仰ぐと、「穏便に済ませ長崎奉行所へ届け出よ」という悠長な回答だった。再度アクチオン号が来航し、藩が強気で退去を迫るとさっさと去っている。このイギリスの動きに触発されたロシアは、文久元年(1861)2月3日に、対馬藩尾崎浦に、軍艦ポサドニック号を派遣した。スキあらばと、ようすを伺っていた。
文久元年2月3日ロシア海軍士官ビリレフが率いるポサドニックが尾崎浦港に停泊した。対馬藩は役人を派遣、入港目的をただすとロシア側は「艦が壊れたので修理する」といい、大工・材木・修理場が欲しいといった。
藩の役人は、艦に壊れている箇所がなく、目的は違うと見抜いた。藩は協議の上、簡単な修理をさせると通告した。だが、藩士の中には納得がいかないものがいて混乱した。2月29日になり、ロシア側は強硬態度に出て、3月2日には70人ほどの乗組員を上陸させ、木材を伐採、翌日は芋崎に上陸、小屋を建設した。
さらにロシア側は、警備の藩役人を拉致したため、藩は要求を呑まざるを得なかった。3月13日には「イギリスが対馬を狙っているから防御するため来航した、その為に大砲を設置することが大事」と力説した。誰の眼にもロシア側目的は不法占拠と判明した。その上、芋崎(地名)の租借を申し入れてきた。
一方、対馬藩内では意見が割れた。特に江戸詰めの藩士らは、幕府に対馬を返上し、代替地を求める方向へ進んだ。これは28日には藩の基本方針として決められたが、攘夷の藩士が呑める話ではない。藩内はますます混乱し家老が斬殺された。
4月12日イギリス軍艦レーベン号が対馬に来航した。対馬藩はロシアがいったイギリスの侵略?と騒ぎが大きくなり、この間にロシア・ボートが禁止箇所を無理に通行、して百姓安五郎が即死、藩士2人が捕縛された。さらに翌日も藩士3名を拉致、牛七頭を略奪した。
対馬藩内は危機的状況に陥った。藩主は幕府に移封願いを提出し、現地で幕府役人を待ったが、5月になってやっと外国奉行・小栗忠順(おぐり・ただまさ)が到着する。結局、箱館奉行・村垣範正(のりまさ)と箱館在住のロシア領事ゴシケビッチの間での交渉に委ねた。6月10日、退去要請を受諾したロシア領事は、海軍提督宛ての書簡を送った。この間に江戸にあった、老中安藤信正がイギリス公使オールコックと交渉、ロシア牽制のため、イギリス軍艦2隻を対馬に派遣、安政五カ国条約(修好通商条約)に違反と圧力をかけた。一方ロシア海軍提督の命令を受けたビリレフは、それでもぐずぐずし、退去したのは20日後の8月15日のこと、イギリスとロシアとの交渉で6ヶ月後に解決した。
この事件は満天下に幕府外交が、無為・無策・無能であることを明らかにし、幕府は国内的に信用を失い、慶喜が大政奉還を行うこととなった。ロシアは、まず親露感情をつくり、次に相手の内部分裂を図ったのち、突然、実力行使に出る。ロシアの性癖は140年余を経た今も変わらない。
筆者モノローグをお許し頂きたいが、わが国は絶妙のタイミングで国を閉じ、どうじに絶妙のタイミングでドアを開いた。ポサドニック事件を調べると、もしこのとき、例えば徳川慶喜が朝廷に抵抗していれば、もし勝海舟と西郷隆盛との間で江戸城無血開城が遅れ、日本が戦乱状態であれば、もし日英関係が悪かったら、日本の地図は今と違っていたと推定する。背筋が寒い思いがあるが、よほどの賢者らが偶然に出揃ったとしか思えない。世界史上、徳川幕府のように戦わずして政権を差し出した例は、他に聞いていない。
引用図書:『江戸の海外情報ネットワーク』岩下哲典著 吉川弘文館
