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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(245)放射能が怖い?

 

 人類が文明を手にして役立ったのは第一にではないか、と勝手に想像している。冬でも暖かく過ごせるし食べ物に火をとおせば旨いし消化もいい。ところが文明とは便利なだけでなく、弊害も同時に持っている

 

火には火災もあるし、火傷もある、森林火災もある。簡単にいうと「文明とはヒトのコントロール」があってはじめて成立している。

 日本ではアメリカの原子力空母が立ち寄ると、湾内の海水を調べ「『放射能もれはなかった』と見られる」などと報道される。「放射能は怖い」との擦り込みが行われ、幼児段階で思考停止している。佐藤満彦氏の『放射能は怖いのか』に我が意を得て、自説とともにご紹介させていただく。

 次の文章をお読みいただきたい。(下線は著者による)
「チェルノブイリ事故のおり、住民が放射能を浴びた。そこから日本に放射能が飛んできた、」とのいい回しをご記憶かと想う。

 マリー・キューリーの放射能の定義から、人体が物質の「能力や性質」を浴びたり、それらが移動したり、洩れたりするとの表現は滑稽そのものという
 

 日本だけで、「放射能」を勝手に「放射性物質」と同一視するようになった。第二次世界大戦後、わが国では「原爆による惨禍が放射能によってもたらされた」、といわれ、放射能に「物質的実体」があるように伝わったから、この言葉が被災国日本にしっかりと根を下ろすに至った。

 

 さらにこの言葉の乱用は放射能(radioactivity)を放射線(radiation)と同じものとした。ちなみにマリー・キューリーの定義にその後の知識を加えていうと、放射能とは「原子核が不安定な状態を克服するため、過剰のエネルギーを放射線のかたちで放出する能力や性質、さらには現象」のことだ。分かりやすく喩えるとホタルが光るとき、ホタルが放射能であり、ホタルの光が放射線となる。ちなみに放射能の能は能力から出たらしい。

 

 日本で耳にする放射能は、放射線を放出する性質を持った物質、すなわち放射性物質(radioactive substance or material)をも、この物質が放出する放射線をも意味し、恐怖や危機感を煽るのに簡便で好都合な言葉として誤用されている。ちなみに学術用語としてのradioactivity radioactive substance の意味を含めて使っている例は、外国の文献では佐藤満彦氏は「見たことがない」と書いている。また普通の国語辞典や理化学辞典には徹底的に調べても、「金輪際お目にかかれない」ことをとくとご確認いただきたい、と述べている。(筆者の広辞苑電子辞書の「被爆」の箇所で、原水爆の被害を受けること。放射能を受けること、とあった)

  

 しかるにメディアや一部専門家も、「放射能」を「放射性物質」を暗示することばとして用いる。「放射能」と「放射性物質」との混同は、科学の厳密さを妨げるだけでなく、ホントウに怖い実態を誤認させる危険がある。最も困った誤用は、「放射能=放射線」で「放射線測定器」が放射能測定器のように呼ばれる。「放射線障害」が放射能障害などと書かれる。また「被爆」と「被曝」は「ひばく」の発音は同じだが、意味が異なる。
 
 詳しくは原本をお読みいただきたいが、1895年、「ドイツのレントゲン(1845、~1923)は偶然に人体を透過して骨の形を発き出す未知の放射線に遭遇、これをエックス線となづけた。翌年にフランスの物理学者アンリ・ベクレル(1852~1908)は、すでに発見されていたウランが、エックス線とは異なる放射線を放つ能力があると発見、これら二つの偶然はしばしば科学史上の話題となる。

 続いてフランス人ピエル・キューリー(1859~1906)とポーランド生まれの妻マリー・キューリー(1867~1934)の二人は1898年、ある鉱物の中に放射線を放出する元素、ラジウムおよびポロニウムを発見、数年後にラジウムを「塩化ラジウム結晶」として純化させた。そして「原子が放射線を放出する性質を放射能」と呼んだ。
 
 これらの極めて希薄な濃度で安全だった天然放射線源は、人類の手によって濃縮されると、危険な人工の放射線源となった(たとえば原子力発電に使われる濃縮ウランのような存在)。
 天然に存在する放射能を持つ同位体(同位元素)は60種ほどに過ぎない。しかし偶然から始まった、人類による「人工の放射性同位元素」は、今日、ゆうに四桁の数字に達している。

 前出のピエル・キューリー夫妻の次女イレーヌ・キューリー(1897~1956)とその夫、ジョリオ・キューリー(1900~58)が1934年に、これもまた偶然に「人間の手によって放射能を持つ元素が史上初めて作られた」のだ。つまり「人工放射能」の発見だ。
 
 また1930年代に加速器(サイクロトロン)が工夫され「人類の手」で空間を高速度で飛行する電子線・陽子線・重陽子線などの放射線を得た。これらも「人類による放射線リスト」に加わった。さらに中性子線を発生させる放射線源である原子炉が続く。1938年にハーンとシュトラスマンは中性子がウラン235に作用すると、この反応は「連鎖反応」として進行すると見つけた。

 そ

 こでアメリカ人物理学者フェルミ(1901~54)は1942年、実際に原子炉を建造した。

 ちなみにこの連鎖反応を制御された一定の割合(臨界状態というようだが筆者には理解不能)エネルギーを継続して放出させるのが「原子炉」、瞬間的エネルギー放出が「核兵器」である。

 

 日本では核エネルギーについて科学的に冷徹に考える態度が不足している。不十分な情報に基づき「どんなに微量な放射線も浴びたくないという願望、浴びないほうがいいとの勧め、浴びてはならないとの信念や主張」が多過ぎる。放射線、あるいは放射能は「すべて悪」とする思考には、感情的な恐怖心が絡んでいる。 

 まず用語くらいは正しく理解していただきたいと、著者の佐藤氏は述べている。

 人体の内外には自然ならびに人工の放射線源が発する放射線が飛び交っている。しかし、地球上の生物はすべて何がしかの、自然の放射線を浴びて存続している。これらヒトが浴びる放射線の線量は、世界の平均で一年に約2.4シーベルトとされるが、この「被曝」は避けることは不可能だ。

 

 むしろ原子力の人類に対するメリットに関心を向けるべきではないか。と多くのメリットを書いている。(筆者の記憶では、沖縄県の農作物は、ウリミバエ被害が広がるため産品を移出できなかったが、放射線で不妊化した成虫を野外に放ち1993年に絶滅させ、現在は移出可能)

 低線量の「被曝」が生物の活性を高めるとのデータもある。ガンなどの放射線治療の効果は次第に有効になってきた。またエネルギー源、工業、農業など信じられないほど多くの分野で人類に役立っている。
 
 文明は進歩する。非常に便利だが、その分、不便や危険を伴う。しかし不要な恐怖感は科学の進歩を、危険回避を邪魔する。

 最初に述べただけでも、年間に日本だけでも数千人の火災犠牲者が出る。世界ではもっと多い。自動車は非常に便利な道具だが、日本だけでも年間およそ一万人の交通事故犠牲者が出る。世界中ではもっと多い。だからといって自動車が危険だからとして廃止することはできない。犠牲者数を少なくとの努力があっても、ゼロにはならない。メリットとデメリットのバランスが大事となる。

 

 原爆の犠牲者数はヒロシマ・ナガサキで30万人とされる(正確なデータはない)。単純計算では日本での自動車事故による犠牲者30年分である。大変な被害を受けたが、米国が残虐にも日本の非戦闘員に対して使った。アメリカは日本の原爆による

報復を最も恐れた。大丈夫となってから非核三原則の総理にノーベル平和賞を贈った。原爆の被爆者だけが気の毒なのではない。
 世界の紛争地域などでの死者のうち、核兵器の犠牲者はいまのところない。90%以上がマシンガンなど簡易通常兵器による。最も多く売りつけるのが、国連安保常任理事国の五カ国という。ルワンダ紛争では100万人といわれる犠牲者が出たらしいが、ほとんどがナタ(蛮刀で殺害された。

 

 筆者は核兵器に賛成とか反対をいっているのではない。政治ではなく現実を見たほうがいいといっているだけだ。核は間違うと確かに危険だが(メディアがいうようなものではない)核がもたらすメリットの大きさは計り知れない。危険が無い文明はない。太陽エネルギーでさえ核エネルギーである。人類は最終的に太陽と同じ「核融合」へ向かっている。福島第一原発の事故といっても、原発とは無関係である。あれは地震がもたらした災害であり、むしろあれほどの大地震に対し、よく耐えたと世界は考えている。原発システムには全く問題がなかった。核爆弾で原子炉を攻撃しても事故というのだろうか。

 


 最近ある国立大学で「核」の入った研究室名から世間的印象が悪いとの理由で「核」を取り除いたそうだが、社会へのおもねりは不要なだけでなく、に対する恐怖心を煽るだけで、原子核の秘密や現象を人々に正しく理解させる科学者責務の放棄になりかねない。

 拒否反応を示すだけでは地球環境の中では生きていけなくなる。世界には核兵器よりもっと怖いものがずっと多い。絶対の安全などはない。


引用図書:『放射能は怖いのか』佐藤満彦著 文春新書 2001年