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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(248)風評被害が怖い



『文藝春秋2011年6月号』に瞠目すべき過去の労作記事が掲載されており、雑誌が発行されてからだいぶ時間を経たので、実害なしと判断、勝手に引用させていただきます。

記者【昭和四十三年六月号:安倍光恭(あべみつやす)】

第五福竜丸事件

 1954年西太平洋のマーシャル諸島近海で鮪の延縄(はえなわ)漁を行っていた漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びた。160Km離れたビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行ったためである。
 昭和二十九年三月一日未明、この小さなマグロ船は(99トン)はビキニ環礁の南東90マイルの沖合で、投縄をはり、エンジンを止めて大海原を漂っていた。
 

 乗組員23人の大半は船内にいた。午前三時五十分ごろ、突然稲妻のような閃光が、西南西の空を走った。「アレッ」と思っているうち、巨大な火の玉が、水平線の上にモクモクと浮かびあがってきた。船室を飛び出してきた船員たちも、キノコ雲の形になって空に溶け込んでいく光景を見て、「あれはピカドンかもしれねえ」と事態を悟った。(注:ピカッと光った後ドーンと音が来るため、当時は原爆をピカドンといった。)

 

 七・八分ののち、今度は}「ドーン」という音が聞こえ、船体が激しく振動した。このとき船の位置は東経166度50分、北緯11度53分、立ち入り禁止区域から18マイル離れていた。福竜丸は危険を覚え、ただちに帰港の途についた。一時間後、灰がさんさんと振り出した。甲板は薄灰色に覆われた。これが有名な死の灰である。(注:原子爆弾にはウラニューム型、プルトニューム型とがあるが、どちらかの原爆で核融合を起す方式が水素爆弾。アメリカの実戦配備はすべて水爆とされる。)

 

 三月十四日早朝、母港に帰り着いた乗組員たちは、船主に報告を済ませ23人は、焼津市立病院で大井医師の診察を受け、簡単な治療の後帰宅した。市立病院にはガイガーカウンターがない。大井医師は念のため、最も症状のひどい機関長と、機関主に、東大病院への紹介状と、問題の灰を持たせて、翌日上京させた。大井医師のカルテには「原爆症?」と記されていたという。

 

 報道合戦が始まり、死の灰という言葉が世界に広がった。一夜明けた焼津は、不安と恐怖の街と化した。
 間もなく全員が東大病院、国立第一病院(現・国際医療センター)に入院し、日本の医学陣総力を挙げての治療を受けることになったが、被爆六ヶ月目の九月二十三日、久保山愛吉さんが、放射能による肝臓障害が原因で亡くなった。当時の売血を輸血したための劇症肝炎と思われる。
 久保山さんは乗組員の中の最年長者であり、いやな顔を見せず内心の不安を笑顔に包んで、私(安倍記者)のたびたびの取材に協力していただいた。未亡人すずさんの胸に遺骨が抱かれた。
 

 この記事にはまだ先があり、記者の安倍氏は事件から14年ぶりに焼津を訪れ、事件の当事者や遺族のもとをたずね、その後を追っている。

 

 すずさんは昔と変わっていなかった。額や手に苦労の痕跡が刻み込まれているようだった。夫を亡くしてから、三人の幼女を抱えてカンヅメ工場に働きに出た。今も同じ工場で働いているという。三人の幼女たちもすっかり大人になって就職していた。親子四人が助け合って働いていた。いちばん小さかった三女には、父の記憶はほとんどない。「さいわい三人とも、いじけずに育ってくれました」と、すずさんはいった。

 久保山さんは死の直前「オレのような苦しみは、だれにも味あわせたくない。オレひとりでたくさんだ」と、すずさんにいった。すずさんはその言葉を三人の娘さんに何度も言い聞かせた。
 

 「無知な私が、日本母親大会」からの望みで、昭和三十二年十二月にカイロで開かれた、「アジア・アフリカ諸国民会議」に臆面もなく出席したのも、この夫のことばを、世界の人たちにも聞いてもらいたかったです」
 そういう、すずさんの真意は、私にはすぐにわかった。ときおり「出しゃばり女」という非難のことばが、すずさんの耳に入ってくる。それに「原水協(共産党系)と原水禁(社会党系)」など、平和団体の対立が、すずさんを悩ませている。


 「3月1日のビキニ・デーには、毎年出席しています。ただし、墓前蔡だけで、その後の皆さんの集会には出ていないのですよ。どの団体にせよ、大勢集まって夫への追善供養をしてくださるのに、妻がお礼の挨拶もしないのでは、非礼にあたるでしょう」と、すずさんはことばを継いだ。
 「でも出席してくださる焼津の人たちは、みんな政党関係者ばかりでしょう。なんだか市民の皆さんからは冷たい目で見られるようで辛いのです。平和運動が、政治思想を越えて、国民みんなの運動になってくれれば、この辛さもなくなるでしょうけど・・・・・・」と、本当に苦しそうな表情だった。

 

 当時の県知事で、すずさんのことについて何かと相談にのった斉藤寿夫代議士(無所属)に会って、このことを話してみた。
「久保山さんの意思をついで、世の人に平和を訴えることはあなたの務めだと思う・・・」と、当時斉藤さんはすずさんに言った・・・「ただし思想的な平和運動の先頭に立つことは避けたほうがいい。あなたには(現実として)三人の子供を養育する義務があるからだ」、と話した。「そういったら、よくわかってくれた。焼津市でも、市主宰の平和蔡を計画したことはあるが、政治団体に乗り込まれ、紛争に巻き込まれるおそれがでてきたので、取りやめたわけだ・・・・・・」と語った。


沈黙する元乗組員たち

 私は、次に漁労長だった見崎吉男さんをたずねた。焼津市で食料品店を開いている。当時の乗組員とは、毎年一回、久保山さんの命日に、久保山家の菩提寺に集まる。久保山さんの冥福を祈り、お互いの近況報告をする事になっているという。ただし、事件当時の話はこれまで一度もしたことはないという。旧い傷口にふれるような気がするからだ・・・と語る。

 

 船長はじめ、みな現在の仕事につき、落ち着いた家庭を持ち、幸いみな無事に生活しているという。心配した子供たちへの障害もまったくなかった。それぞれ入院がきっかけとなって、看護婦だった現在の奥さんたちと結婚、国立病院の主治医だった熊取敏之博士が,毎年一回、二十一名を四・五日入院させて診断してくれる。誰にも異常はないという


 「焼津では平和運動に参加すると、とかくアカとみられる。だから、久保山さんの墓前にお参りするのを遠慮している人もかなりいるんです」と見崎さんはいった。そして次のように付け加えた。「私は原水協や原水禁の集会に、いちども出た事はない。政治の争いにまきこまれるのはマッピラだ。平和ということばが、その意味のとおりに、なごやかに使えるような時代が、一日も早く来ればいいのですがねぇ」

原爆の広島で子育てをした女たち

江刺昭子(えさし・あきこ)

 

 原子爆弾の爆発による被害は原発事故による被曝とはことなり、大きく五つに分けられる。
熱戦による被害
爆風による被害
高熱火災による被害
放射線による被害
後障害 被爆直後だけではなく、その後も長い間被爆者の身体に障害をもたらし、それは今も終わっていない。
 

 筆者は医師ではないが、素人として爆撃や焼夷弾の被害と比較すると、の「放射線による被害」が「原爆独自の症状」と理解できる。また秘密の部分による差別がひどかった。なんであれ情報の不確実は必ず差別を助長する。

 江刺昭子氏による、鋭い視点の「被害者の発言」が掲載されていた。


 「結婚問題とか差別がすごかったですよ。昔の結核といっしょで、あれ(あのひと)はピカにおうとるけん、あれのへり()にいったらうつるけんいわれてね。その差別がいちばん嫌でした。外に出たくなくて、家と会社を往復するだけで、娘時代はなかったようなものです。 

 年頃になって親戚が結婚させようとしたら、ピカにおうとるけん、いつ病気になるか、いつ死ぬかわからんし、ということでキャンセルされました」

 

 占領下、原爆報道は規制された。原爆症についてはほとんど知られていなかった。それゆえにうつる(伝染する)と誤解される辛さがあった。
 結婚していいのか、佐々木さん(被インタビュー者)も悩んだが、戦後十年目に同じ会社の人に求婚された。夫は鳥取出身だが、「広島の人というだけで親が反対した」がゴールインした。「私は主人にもろうてもらったんです。

 「子供を産んでいいのかも悩みましたよ。すぐはできんかったから、やっぱり被爆しているせいじゃろうか、とも思うし、半分は怖いし。長女が生まれたときはほんと嬉しかったです。この子らを絶対に育てんといかん思うて、子供が一人前になるまで病院にいきませんでした。病院であそこが悪い、ここが悪いといわれたら、そのまま寝込むだろうと思ってね」と語っている。


 他のインタビューでは「女の人はこどもを産むからといわれて、女の人で被爆しているのに原爆手帳もっていない人がけっこういたから、ああ、こういうことかなと思いましたね」とも記されている。

 原爆平和運動などに巻き込まれた場合は、平穏な生活が困難となるため、原爆被害者はほとんどが参加しなかったという。「共産党系と社会党系」だけではなく沢山の分派が生まれたろう。

 原爆症(放射線障害)+政治闘争に巻き込まれることが、その後の人生で大きな負担となった。

 

 最近、原爆と原発を結び付けようとする動きがあるようだが、さすがに無理があり失敗しているようだ。ちなみに原爆以外の、特に東京、大阪など都市部をはじめ、全土に及んだ焦土戦術の凄まじさも、ウィキペディアから引用させていただきます。使われた焼夷弾は現代で言うクラスター爆弾であり、特にM69型は、無数の小爆弾が降り注ぎ、母子づれなど、人々の頭部、首筋、背中を刺し貫いて即死させ、そのまま人体を燃え上がらせるという、凄惨な目撃談が多数残されている。


 戦争の惨劇を「あり得ぬ」あるいは「想定外」とするのは、非常に危険と筆者は考えている。あたかも原発安全神話と同じと感じるからだ。もちろん、こういうことが現実とならぬように心から祈っている。だが「対策を講じておくと、そういうことが起きるんじゃないか?」との「神話」からは脱しておくべきだろう。「何も考えなければ、そういうことにはならない」と言う主張は、やはり「神話」であろう。

 今回の地震・津波と同じで、来るときは突然に襲ってくる。安全神話を抜け出し最悪の事態を想定しておくことが「危機管理」であり、多くの命を救うことになると確信している。もちろん「何もない」のが一番である。


無差別爆撃の合計死者数 [編集]
調査団体によってばらつきがあり、23-55万人程度と考えられている。また100万人を超すとの説もある。詳細は以下のウキペディアまで。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2


死傷者数(単位:人)
調査団体 合計 調査年数


東京新聞 558,863  1994
建設省戦災復興史 336,738  1957
戦災都市連盟 509,734  1956
経済安定本部 299,485  1949
第一復員省 238,549  1957
米国戦略爆撃調査団 252,769  1947
 

なお負傷者は30万人程度と推測されている
                                                                    

                              以上