(249)江戸の円周率
海外との交流がなかったから、日本は「数学などの発達は望めなかったろう?」というのは間違いです。実は世界ダントツのレベルでした。
日本独自の数学を和算(わさん)と呼びましたが、西洋の数学にはない特徴があります。
中でも①算額奉掲(さんがく・ほうけい=難しい問題が解けると神社に解答を記した額を奉納) ②遺題承継(いだい・しょうけい=難しい問題を解いた本を出版すると、解答を書かず新問題を記し、【挑戦させる】習慣)、③遊歴算家(ゆうれき・さんか=全国を股にかけ、数学を教えて歩く和算家。遊歴算家が、ある土地を訪れると、土地の名士が自分の家に泊まらせ、何日も数学を教わり、さらに数学塾まで作った例が多いそうです。
このような習慣は、江戸時代初期から長く続き、中には近代まで続いたものもあるとされます。芭蕉とか蕪村、一茶などの俳諧、茶の湯、華道、剣客、謡、絵描き、三味線などの膨大な趣味の世界のひとつでした。文化は趣味として日本中で沸騰しておりました。
よって和算家にも、身分・階級はまったく無関係でした。武士だったり百姓だったり馬子だったり、それぞれの道で優れていれば、家元制度などでなんとか食べていけました。アカデミズムとはまったく関係がない世界です。
和算はもちろん数学ですが、学ぶ目的は現代のそれと必ずしも一致しておりません。もちろん、ソロバンの知識や暦の計算法(カレンダー)などは実用に供するものでしたが、多くの和算家が夢中になったのは、①難しいパズルのような問題と、②すっきりした解答の組み合わせを発見し誇示すること。【究極の簡潔さと完全さ】を求める一種の美を追求しておりました。
もともと数学は大陸から渡って来ました。古来の中国では、数学は芸事のひとつ、流 派の発生や、免許制度、秘密主義は、数学が古代中国で廃れた後も、和算が受け継ぎましたが、芸事的特長が顕著です。こういう制度は発展を遅らせることもありましたが、多くの和算家(その他の人材)が何とか食べていけたメリットも考慮する必要があります。
しかしながら和算が連綿と続いてきたのは、【家元制度があったから】というより、十九世紀に世界でダントツ、日本人の知的欲求の高さが根底にあったから、と平成四年に第十六回歴史文学賞を受賞され、また拙文に引用させていただいた「鳴海 風氏」が記されています。
繰り返しますが、和算は特定の階級のものでなく、大名から長屋の住人、百姓に至るまでが没頭した日本人の趣味でした。鎖国(海封)の中で、西洋の数学発展にそれほど遅れなかった(部分的には西洋より早かった)ことは、「和算」の「山の高さと裾野の広さを」証明しています。たくさんある高等数学の中から、円周率に限ってご説明し、江戸の数学はどの程度のレベルだったか、ご理解を賜りたく思います。
円周率の計算において何処かの大学教授が、スーパーコンピュータを使い、小数点以下十億七千三百十四万桁までの計算に成功・・・・・・平成元年十一月二十日の新聞記事ですが、アメリカの助教授がこの記録を破り、さらに記録を奪還するため、計算プログラムに改良を重ねてきたとか。で、計算に要した時間は七四時間三〇分。 こういった競走は、およそ実用のためではあり得ません。一種のゲームであり皆で円周率計算競走を楽しんでいるようです。
西洋での円周率の研究は、16世紀の終わりごろ始まったといわれます。17世紀の最高記録はオランダのコーレンが計算した、小数点以下35桁。この人はこの数字を遺言で墓石に刻ませたというから凄い。
同時代のニュートンでも1676年に14桁までしか計算していない。
日本ではいわゆる鎖国令のため、独自の方法で円周率競争に参加した男たちがおりました。
【三一四をそむくなかれ】と、1663年(寛文3年)、村松茂清(むらまつ・しげきよ:1608?~1695(元禄8年))は著書『算俎(さんそ)』の中で、円周率の求め方とその値、小数点以下21桁を示した。三一四とは、円周率<三・一四>の事である。村松は吉良邸討ち入りの義士の中に名を連ねている所から、忠臣蔵の舞台になった時代には、円周率<3.14>を知る人が多かった。
その死後、算聖といわれた関孝和(せき・たかかず/こうわ:1642?~1708)は20歳そこそこで、同じように円周率の計算を試み、翌寛文4年(1664年)最初の著書を世に出したが、精度のうえでは村松茂清のほうが上。
また微分積分の発見をしたといわれますが、西洋数学とは考え方がまったく異なり、比較するのは間違いだとか。この人は多くの優れた弟子を育て、また当時の日本語を使った数式の方法を考案し、その後の数学に大きな貢献をしたと評価されている。この年建部賢弘(かたべ・かたひろ:1664~1739)が生まれた。
建部賢弘は5歳の頃、さし渡し一尺から最大五尺までの桶を何処からとなく五個集め、その【タガ】の長さをひとつひとつ丁寧に測った。そして桶の大きさと、タガの長さの間には何か決まりがある、と兄、建部隼人に話したといいます。円周と直径の長さの比率、すなわち円周率を5歳で直感しています。
その他、幼い頃に平方に開く方法【開平法】や【鉤股弦(こうこげん)の理(ピタゴラスの定理)】などを理解していたといいます。
十歳の時に建部賢弘は実兄に、新しい数学本『算俎(さんそ)』を解説した。円周率の計算方法ですが、この説明を現代風に言い替えると次のようになる。(筆者は理解しておらずご注意の程)
まず、直径一尺の円に、正方形を内接させ、またその周の長さを計算する。次に、その正方形と円の間に、正八角形を内接させ、またその周の長さを計算する。次から次へとこの操作を繰り返しながら、正多角形の周の長さを計算してゆく。
ピタゴラスの定理と開平法さえ知っていれば、計算は十分できる。正多角形は、限りなく直径一尺の円に近づいていくから、その周の長さは、三尺一寸四分・・・・・・、と円周率と同値になる。
『算俎』を著した村松茂清は、これを【正三万二千七百六十八角形】まで計算したと記録にあるそうです。
ところで建部賢弘は、後に関孝和の優秀な弟子となりますが、いくら小数点以下を求めて増やしても、関先生は褒めてくれない。才能は認めていましたから、「真理」、すなわち公式を求めさせたかったんですね。
将軍吉宗に仕えた建部賢弘は、忙しい人生の中で研究を続け、1721(享保6年)、おおざっぱな計算だとおよそ40年後の59歳のときに公式を発見、これを【円理】として『綴術算経(てつじゅつ・さんけい)』に著し将軍吉宗に献上しました。原本は今も内閣文庫に保存されているそうです。
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円周率の二乗の無限級数展開式であり、まさしく、日本で最初の円周率を表す公式だった。この公式は西洋では、オイラーがベルヌーイにあてた1737年の書簡に初めて見られるもので、賢弘の発見はこれより15年早い。ちなみに日本の数学世界では、この人の名がのこされ、建部賢弘賞があり現代につながります。
自慢ではないが、筆者は理数系がまったく駄目でよくわからない。しかしチャント本には【現代風に記すと】と書いてあるが理解不能、それと打ち込み方が分らず、画像取り込みで表示しておきます。
さて、西洋列強の脅威に目覚めた人々によって推し進められた明治維新、西洋文明と科学技術の急速な導入に必須だった西洋数学を瞬くうちに身につけたのは、数学道場の二代目、長谷川弘に師事し、高等数学をあたりまえに楽しんでいた笠間藩士の小野友五郎ら多くの和算家たちでした。
有名な幕末の志士たちは勿論として、新技術導入の原動力として基盤を支えた和算家たちはわが国の宝でありました。また今も日本は理論物理などの分野に非常に強いのですが、これは江戸期からの「和算伝統」ではないか?などと考えてしまうのであります。理科系が全くダメな筆者としては、嬉しいのですが劣等感を刺激されるのであります。
引用本:『円周率を計算した男』鳴海 風 新人物往来社 1998年刊
