(330)御徒町(おかちまち)の由来
上野駅の近くにアメ屋横丁があり、ここに最も近い駅は御徒町(おかちまち)で、妙な名前だと子供の頃から思っていた。この「御徒(おかち)」というのは、幕府の下級幕臣の役職名のことで、御徒町とは御徒の住む土地の名だった。
御徒や鉄砲組同心などの下級幕臣の屋敷地は、「組屋敷」といって、組単位で与えられた。
御徒の場合は、当時「下谷(したや)」と呼ばれた現在の御徒町のあたりのほか、深川元町、本所錦糸堀などにあった。下谷には組屋敷がいくつもあったので、御徒町の名前が定着するようになったという。
分割されるとはいえ、御徒一人あたりの屋敷地は本所錦糸堀で二百坪、深川元町で百三十坪ほどもあった。ただ、下谷では、せいぜい百坪だったという。それだって現在であれば大邸宅が構えられるが、家の建築費は自費だったから、玄関三畳に八畳と六畳、それに台所と雪隠が付いた2DKで、建坪は二十坪ほどに過ぎなかった。
裕福な者はそれに座敷と土蔵、湯殿なども持っていたというが、これは稀なことだったという。百坪以上の敷地に二十坪の平屋があるだけだから、残りは畑にしてナスやキュウリを栽培したり、あるいは若干の地代を取って人に貸したりした。
地代は、安政のころ(1854~60)で、百三十坪が年間三両三分だったという。金一両を二十万円として換算すると七十五万円である。
現在から見るとずいぶん安いが、家作を建てる必要は無いので、それなりの収入になったと考えていいだろう。
徒士組は、全部で二十組あり、一組三十人で、そのうち二人を組頭に任じて組の取り締まりに当たらせた。組を指揮する徒頭にはエリートである両番家筋の旗本が任じられた。
御徒の給料と「お玉落(おたまおち)」
御徒の世禄(代々与えられる家禄)は、七十俵五人扶持である。一俵は三斗五升入りだから、七十俵だと米二十四・五石である。米の値段はその年の相場によって変動するが、百俵(三十五石)につき四十両ほどだから、七十俵で二十八両ほどの収入である。
先ほどの換算率で計算すると、年収五百六十万円となる。それに五人扶持がつく。一任扶持は、一日玄米五合だから、五人扶持だと年間約九石(二十五俵と二斗五升)である。
これらの米は、浅草にあった幕府の米蔵から支給されるが、全部が米ではなく、三分の二は幕府公定の相場によって、金銭で支給される。残りの三分の一が米で支給されるが、この米も、自家で消費する分を除いて換金する。これをやってくれる業者が「札差(ふださし)」だった。
旗本・御家人の俸禄は、二月(春貸米)と五月(夏貸米)に四分の一ずつが支給され、新米収穫後の十月に残り半分が支給される。これを「冬切米」といった。切米が渡される日を「お玉落」という。名前を書いた紙を丸めて箱に入れ、底にあけた穴から落ちた順番に俸給が渡されるからである。
そのとき、支給される俸禄を全額受け取れる者はほとんどいなかった。皆、札差に借金があったからだ。札差の本来の業務は、幕府の米を換金して幕臣に渡し、手数料を受け取るというものだったが、そのほかに幕臣に対して小口の金融を行っていた。その金利収入が莫大なもので、札差はいずれも奢侈(しゃし)を極めた。
将軍に同行する御徒の昇進
お玉落ちの日に札差から渡される勘定書には、「差引御不足金何両」などと書いてあって、新しく借金しないと、生活費にさえ事欠いた。
そのため、御徒クラスだと、下男や下女を雇うことはほとんどない。子供が多いもので、子守の少女一人を置くぐらいがせいぜいだった。
下層の御家人や小普請(無役)の旗本は、傘張りやおもちゃ作りなどの内職に精を出したが、御徒は公務が忙しく、内職はほとんどできなかった。
もっとも公務のためだけではない。御徒には、人物に応じてお目見え以上の役職に登用の道が開かれており、それを目指して職務や学問に励む者が多かったという事情もあった。
御徒の公務は、将軍の外出に随行してその警備に当たるというものである。そのため、御徒は、黒縮緬(くろちりめん)の羽織を支給され、公務で外出するときはこれを着用した。この服装は、鷹狩りなどで将軍が外出するときに着用するのと同じもので、もし不測の事態がおこった時は、随行している御徒の中に身を隠すことになっていた。
江戸城中で能が催されるときも、縁側の下に数名の御徒が黒羽織を着て控えていたという。
このように将軍の身辺近くを警護する役職だったから、励みになるようにと登用の道を開いていたのだろう。こうした道が開かれていると、行動にも差が出る。御徒は、他の御家人に比べて品行には雲泥の差があったという。
努力して御目見え以上の役職に登用されるものは多い。親が御徒の株を買い、自身は少禄の旗本の養子となり、支配勘定から勤務をはじめ、ついには勘定奉行という高官にのぼった川路聖謨(かわじ・としあきら)のような俊才もいる。明治維新のとき、五稜郭に籠もって政府に対抗したことで有名な榎本武明も(えのもと・たけあき)も、下谷三味線掘りの御徒出身だった。
引用本:『江戸の組織人』 山本博文著 新潮文庫
