(329)金はなくてもいい時は来る | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(329)金はなくてもいい時は来る

 

 江戸で生活する庶民には、税金が一切かからなかった。だから、その日を生きる銭さえあれば、食うことにも困らなかった。

 

 世の中は稼いで食って寝て起きて

 

 江戸で生きるには、日銭でもよいから稼ぐときにはしっかり働いて、あとは安価な食品で食事をして、ごろりと寝て、翌日はしゃんと起きて、また稼ぐ。これが当時の処世訓なのだ。
 

 つまらぬ世事にはこだわらず、小さなことにはくよくよせず、陽気におおらかに生きる。俚諺(りげん)に「江戸っ子は五月の鯉の吹流し」といわれる。これは江戸っ子たる者、言葉遣いは荒っぽいが、気持ちはさっぱりして何事にもこだわらないという意味である。

 

 こういった生活信条の根幹には、「お天道様に恥じない行いをする」という意識があった。俗に言われる「施す者には福が報い、恨む者には禍がきたる」という観念の基に生活をする。これらの格言というか哲学というかは、お寺様に墓参するときに住職などから懇々と説き聞かせられるのだ。
 

 お寺で仏教の教義をおもしろおかしく説く僧は、談義僧とよばれる。安永期には特に流行し、講談師のように軍記物語などを含めて、手振り身振りよろしく聴衆の庶民たちの人気をあおった。「とんじんち」の三毒が、世の中の地獄と説く仏なり」と教えられ、「とんじんち」を漢字で書くと「貧・瞋・痴」となる。貧はむさぼる、瞋は怒る、痴は理非がわからない、ということで、協議の中の三毒(心の中の三つの邪悪)といわれるものだ。

 

 この三毒を心に持つ者は、あの世に行っても成仏はできないと説かれ、婆などは深く肝に銘じて反省させられる。

 

 御談義をおむくな娘よく覚え

 

 親に連れられて談義を聞きにいったうぶな娘。話の内容に感銘し、教訓的な事項をしっかりと頭に入れるのだ。
 「おむく」は「お無垢」で生娘の意味。あまり外出もせず、世間知らずの乙女は、僧侶の談義が新鮮で刺激的なのだ。講義が終わると、お賽銭を奉納する。身のためになった話と聞いたと思うものは、多目の金品を報謝する。


 ご講義が済むと勧化を母が出し


「勧化」とは金品の寄付である。講義を聞いて笑ったり、涙を流したり、人々は様々な反応をする。後生願いの信心深い年配の庶民たちは、「ありがたい講義を聞きました」と、その感銘に応じてそれ相当な賽銭を差し上げる。娘などを連れて行った母親は、進んで報謝をするのだ。
 

 庶民たちは互いに約束を交わす時に、言葉の端に「天道(てんどう)ぞ」という。これは「たしかに、誓って、神かけて」という代名詞である。常に人々の頭の中には「運を天道に任せる」という意識が深く根ざしており、「天道様」は「天地神明」であり絶対なる存在であった。
 

 諺に「天道人を殺さず」というのがある。つまり、天道様は慈悲深いので、人を見捨てるようなことは無いという主旨である。まともに生活して悪事を働かず、天に恥じない日常なのに、金銭の入る仕事は見つからず手持ち無沙汰で、のらりくらりと日々を過ごしている境涯をいう句である。

 同様に、「天道に可愛がられて貧乏さん」とも詠まれている。何にも悪いことはしていないのに、一向に「たつき」(生活の手段、生計)が成り立たないというわけである。
 金銭が手元に無くとも、いつかはきっといい時がくる、こんな楽天的な心情を常に持っていたのが、江戸の庶民たちなのである。



引用本:『大江戸庶民の驚く生活考』 渡辺信一郎著 青春出版社