(302)明治少年懐古
木版画家の川上澄生氏をご存知でしょうか。明治28年(1895)に横浜市に生まれ、その後青山へ移り、青山高等学院を卒業してカナダへ行き、アメリカを経て帰国すると栃木県宇都宮中学校の教師となります。その後戦火を避け妻の実家のあった北海道へ。戦後もずっと木版画を続け、昭和42年、勲四等瑞宝章を受賞。昭和47年(1972)宇都宮の自宅で死去。享年77歳。棟方志巧に強い影響を与えました。今の若い人たちも『ALWAYS 三丁目の夕日』に何となく懐かしさを覚えるのと同じように、私達の両親たちは川上澄夫氏の木版画とエッセイに懐かしさを覚えていたようです。随筆を二編だけご紹介します。
小学校の頃、遠足だといへば草鞋(わらじ)をはいて行ったものだった。ぞうりの紐の結び方は祖母も父も母も知っていた。青山北町四丁目から原宿のほうへ入るだらだら坂の右角に焼芋屋があって草鞋を売っていた。焼芋屋といえば、「十三里」と書いた看板を出しているのも夏になれば氷屋となるのもお定まりであった。
平常の履物はといへば駒下駄であって、山桐などの堅木の下駄であった。他所行きには柾目の通った桐の下駄をはいていた。鼻緒は黒いビロードをつけて貰った。下駄屋の店先に腰を下ろして、下駄屋さんの手馴れた操作を見ていた。「前鼻緒をゆるくしておいてください」といふのが私の注文であった。下駄屋さんは最後に両手で鼻緒をしごくようにして格構をなおしてから私のほうへ差し出した。
板草履といふのは草履の裏が桟を横につないだようなもので私はあまり履いたことがなかった。小学校では赤い鼻緒の麻裏の上草履をはいた。又白い鼻緒の草履は外はきにはいた。
中学へ行ってから朴歯の日和下駄(ひよりげた)をはいた。これはずっと大きくなってもはいていたものだった。
一本歯の高足駄といふものがあった。小学校の時分、雪の降った日にそれをはいて来たものがあった。
私の父は靴屋にわざわざ注文して先の四角な靴をはいていた。私もさういふ人のはかない私には変に見える靴をはかされたものだった。あまり先の細いのは足のためによくないといふのが父の考えで、先の広い四角な変な靴をつくらせたわけなのであった。又中学の頃は友達のまねをして兵隊靴を半蔵門近くの軍隊の払ひ下げばかり売っている店へ買いに行った事もあった。
第五十三 洋燈(ランプ)
洋燈は時々ぢいぢい鳴く。洋燈は人の影を大きく襖に写す。影の写っている襖の向ふの隣りの室は暗い室である。暗い室の外の廊下も暗い廊下である。その廊下の雨戸の外は真っ暗な夜である。真っ暗な夜は何となく不気味で私の嫌いなものの一つであった。さうすると明るい洋燈は頼りになる好ましいものであった。
洋燈は綺麗好きである。だから掃除して磨いてやらねばならぬ。洋燈は曲がったことが嫌ひである、だから火筒(ほづつ)をきちんとはめたり芯を揃えて頭を切って置かねばならぬ。とにかく毎日火筒は掃除しなければならなかった。息を吐きかけては柔らかな布で火筒の内外をきゅつきゅつと音を立てて磨かねばならなかった。それから内側へは布を入れて太鼓の撥のような棒の頭にたんぽをつけたものでその布を操作して油煙の曇りをとるのであった。
カステラの広告に使われた記憶が。不明。天井から吊るす洋燈や机の上に置くのや又畳の上に置く丈の長いのや小さな豆洋燈や笠のあるのや無いのやら種々あった。神田小川町の須田町から来る電車が神田橋の方へ曲がる角の所に大きな看板に洋燈の絵の画いてあった店は割りに近年まであったと思っている。
此処で僕の云ふ洋燈とは勿論石油洋燈のことなのである。
軒燈も洋燈であった。警察や憲兵隊には赤い硝子の洋燈がついて居た。路普請(みちぶしん)など通行止めの所や危険の箇所にも赤い硝子の洋燈がついて居た。軒燈の硝子に家守(やもり)がべったりとへばりついて模様のように動かないで居ることがあった。
その軒燈をつけて廻る役は点燈夫と呼ばれた。これも点燈夫の仲間だらうが灯を付けに廻る前に軒燈のなかに入って燈る洋燈の火筒の掃除をしたり石油を補って歩く役の人が居た。服装も何も同じやうだが只その仕事が点燈夫と異なっていた。点燈夫達は古い中折帽のつばをさげて被り首に手拭を巻き縦縞のしゃつに半袴脚絆(はんこきゃはん)ばきに草鞋といふやうないでたちで、肩に脚立を引かけ片手に洋燈をさげて、蝙蝠のひらひらと飛び交ふ夕暮れの町を、たつたつたつと走って行くものだった。
そして洋燈のある所に脚立を立て或いは塀などに脚立を寄りかけて、二足三足脚立に昇り手に下げた洋燈の火筒の中に曲がった先に綿か布のついている針金をつっ込み一寸火をつけてそれを軒燈の火筒の中に移し洋燈の芯をぱっと出して火をつけてから又芯を適当に引込めてそれで一ヶ所を終わりそれからまたたつたつたつと次の軒燈の所へ走って行くのであった。さうすると夕暮れの町が夜の町になって軒燈が明るく輝き出すのである。
明治少年懐古 川上澄夫著 ウエッジ文庫



