(301)読み書き算盤 | 江戸老人のブログ

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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(301)読み書き算盤

 


 書体、つまり文字の書きかたは時代によって変化します。同じ江戸時代でも、おおむね十七世紀半ばの寛永期以前とそれ以後とではかなり違ってくるという。また使う紙の種類や、その紙を一枚の大判で、あるいは半分に切って、あるいは半分に折って使うのかなど、用途による違いもあるとか。時代劇などで、学校の書道の授業で使うような真っ白な薄手の半紙が使われると「時代が違うんだよ!」と興ざめすると書かれています。

 

 江戸時代の武家は、源平合戦の頃と違い、全員が読み書きできたのは当然として、村でも、名主(庄屋)や、町の上層町人らは、江戸時代の早くから読み書きと算盤の能力を持っておりました。江戸時代の政治や社会の仕組みは、そのような能力を前提として成立していたのです。たとえば、これこれをしてはいけないといった禁止や指示を紙に書いた触書(ふれがき)を手渡したり、または今年の年貢はこれこれと文書を渡せば、村の方で計算し、個々の百姓に割り当て、ちゃんと集めて年貢を領主に納める、これを村請制といっていましたが、村に一定数の読み書き算盤ができるものがいる必要がありました。

 


 問題は庶民の読み書き算盤でしょう。安政元年(1854)にアメリカのペリーたちは前年六月に続いて来日し、日米和親条約を締結しましたが、伊豆の下田や横浜、函館などを検分しており、『ペルリ提督日本遠征記』に書いています。そのなかに「下田でも印刷所は見かけなかったが、書物は店頭で見受けられた。このような書物は初歩的性質の安価なものか通俗的物語、または小説だったが、人気がありそうだった、とあるとか。絵草子や戯作本などの沢山の書籍が売られていることに注目し、人民が読み方を教えられていて、知識欲が旺盛らしいと書き、女性も芸事だけではなく、読み書きにも通じており、庶民レベルの読み書き能力の高さ、また書物の多さに驚いています。

 

 古代都市トロイ遺跡の発見で有名なドイツのシュリーマン(1822~90)も、元治元年に横浜に上陸し、江戸や八王子での見聞『日本中国旅行記』に記していますが、「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらい良く普及している」とあります。「だから日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成された自国語を読み書きできない男女はいない」と記しています。つまり教育がヨーロッパの文明国と同じ水準に普及した結果、読み書きのできない日本人はいない」と記していますが、そこまでいえるかどうかは別としても、幕末日本の庶民には、読み書きができるものがかなり多いことを窺わせます。

 


 現実として、幕末に向かって識字率は高まっていったが、この急激な向上は18世紀末から19世紀はじめにかけて始まったらしいのです。日本はさまざまな記録が残されている国の一つですが、信州の森村という所の記録によると、弘化三年(1846)ごろに、四、五十年以前と比べて、森村がどのように変化したかを、さまざまな面から書いていて面白いといいます。

 

引用開始
 森村は無筆人(むひつ)が多く、今それを語っても誰も信じてくれないほどだ。私が二十二、三歳の頃から素読が流行し、年季奉公人(奉公先で夜間に学んだ)までも詠む様になって以降、今では森村の人々は、俳諧、狂歌、和歌、さらには長歌まで嗜む人も多いほどで、全く転地黒白ほども変わってしまった。しかしこのような事態は森村のことだけではなく、世間一般に見られる。
 この記録を書いた中条唯七郎さんは、安永二年(1773)生まれだから、二十二、三歳ごろといえば,寛政六、七年ごろに当たるとか。その頃に素読が流行り、それ以来、俳諧や和歌が盛んになり、今では無筆の人がいないほどだといっています。
 森村のことだけではなく、松代藩(長野県)の村では、18世紀の末から、庶民が素読、読み書きを習うという動きが始まり、急速に進んで、19世紀半ばには、読み書きができない者がいなくなったそうで、この間の変化は、信じてもらえないほどのものだといいます。
引用終了
 
 農村部での読み書き能力の向上は、俳諧や狂歌、和歌などを嗜み、また各種の小説を読み、更に生け花、茶の湯、書画などの芸道にまで及んだそうです。俳句や和歌の、今で言うサークルがたくさん作られ、相互に交流を重ねていたといいます。
 広大な裾野を持つ農村部のこのような動向が、江戸を中心に大量の書籍の出版と、出版業の隆盛をもたらしたことは言うまでもありません。黒船でやってきたペリーたちが注目した多量の書籍が販売されていた背景はこのあたりではないでしょうか。

 

 18世紀末ごろの幕府は14、5歳ごろまでは読み書き算盤を習わせ、成人したら手習いや読書はやめなさい、と教え諭しているとか。理由は、芸事が上達すると、それで稼ごうとし、農業をやめて他の職業につこうとするからだといいます。幕府からすると、ある程度の読み書き算盤能力は便利でしたが、もっと進んで遊芸にふけったり、さらには家業である農業をやめ、それで身を立てようとするのを防ぎたかったといいます。

 

 話が飛んで、飛騨(岐阜県)のある老農は、天保14年(1843)に「百姓は無筆無算のほうがいい、筆算ができると農業をおろそかにして遊芸、好事(こうず)に走り、ついには家を潰してしまうことになる」と語っていたとか。村の維持と、家の永続を願う篤実な農民にとって、農業をおろそかにしかねない動きは許せなかったのでしょう。
 
明治元年の五箇条のご誓文は、「すべての国民はそれぞれ自分の志によって生き、満足できる人生を送りなさい」などといった意味が入っているのは、当時の世相から当然だったでしょうし、明治5年の学制布告に「学問は身を立てるの財本」、つまり学問が豊かに生きていく道だ、などの意味が入っているのも、当然だったのでしょう。

 

 庶民たちの読み書きは現代の話し言葉のようではありませんし、楷書のようにはかけませんでした。しかし、読み書き能力に象徴される庶民の「才」の発展は、すでに江戸時代とは違った社会が始まっていたことを示しているのではないでしょうか。



大江戸世相夜話 藤川 覚 著 中公新書