(292)水戸天狗党の乱 第二章(三章まで) | 江戸老人のブログ

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(292)水戸天狗党 第二章(三章まで)



 さて、ここから天狗党浪士らが、処刑されるまでを吉村明氏が小説に書こうと考え、敦賀市とその周辺を歩いて調べている。幕末の陰惨とも言える事件だが、よく当時の空気を伝える話で、この話の結末をご紹介させていただきます。

 浪士勢が十二月一日に揖斐(いび)に入ったことは、その日のうちに福井藩から急飛脚で大野藩に伝えられた。浪士勢が西の谷を経て大野方面に向かうおそれがあるという内容だった。
 大野藩は幕府に対する思惑から水戸浪士勢の領内通過を傍観する訳にはいかなかったが、兵力が乏しく、強大な戦力を持つ浪士勢と戦うことは避けたかった。彼らの唯一の頼りは、美濃との境にある険しい冬の蝿烏帽子峠(はいえぼし・とうげ)を、雪の支度もない浪士勢が大砲などを曳いて越えることは決してあるまいということであった。
 

 その夜、探索に出ていた者から、浪士勢が降雪の蝿烏帽子峠を越えたという通報があり、藩の重役たちは動揺した。そして、藩士を招集し、西の谷方面に出陣した。しかし弱体の大野藩には二千余とも噂される水戸浪士勢と一戦交える力はなく、重役たちは三つの対抗策をとることを決めた。

1. 積雪と寒気にさらされた山中の浪士勢に宿舎、燃料、食料を断つため、村々を焼き払う。
2. 伐り倒した樹木を山道に横たえて道をとざし、すべての橋を落とす。
3. 町への侵入を防ぐため大野の入り口である笹間太峠に陣をしく。
 これにもとづき、藩の主力が笹又峠(ささまたとうげ)で陣をかため、兵を放って山中の村々の民家二百三軒をすべて焼き払い、橋を落とした。


 その火災が、浪士勢の大野への攻撃と誤解され、大野の町は大混乱におちいった。やがて勝山藩、さらに福井藩兵も応援に駆けつけたが、合計六百が、笹又峠から大野の町に通じる道に配された。しかし、二千余の大軍を擁する浪士勢の進撃を食い止めることは不可能と判断され、大野藩兵は笹又峠を放棄し、勝山、福井両藩も兵を退いて、大野城に籠城の準備をととのえた。十二月五日であった。
 

 水戸浪士勢の山中の行軍は、困難を極めた。その状況は日記の十二月五日の欄に、「五日 大雪」とある。
 

 晴天より雪降り、道路依然険悪なる上、大野藩において阻絶を設けたるため雪中の困難言語に絶す。弾薬駄馬一頭谷に墜落す。夜半中島に達せしも、民家焼却のため雪中に露営。行程三里。とある。翌六日、日記には「朝より雪 笹又峠を浪士勢が越え、大野からわずか一里半(六キロ)の木本村に舎営。村民出迎ふ。行程四里」と記されている。(中略)
 

 浪士勢は、難所の木ノ芽峠を越えて、敦賀に通じる新保にたどり着いたのである。その頃、彼らが直訴しようとしていた一橋慶喜は、禁裏御守衛総督の立場として浪士勢の京都に入ることを許すわけにはいかず、また自分の藩ものたちが徒党を組んで行動していることは申し訳が立たぬとして、朝廷に征討を申し出た。朝廷では、降伏したものには寛大な扱いをすることを条件に、それを許した。
 

 つまり水戸浪士勢は、幕府の指令によって出陣した諸藩兵と一橋慶喜の追討軍によって行く手をはばまれることになった。その両追討軍は、彦根、鯖江、加賀、小田原、桑名、大垣、会津、福岡、津、小浜、府中、敦賀、福井、飯笹、丸岡、金沢、大聖寺の諸藩兵、一橋慶喜軍の一部を合わせた一万百の大兵力であった。それらの中で一番手は、永原甚七郎を監軍とした約千名の加賀藩兵であった。
 

 武田耕雲斎は、葉原村に加賀藩兵が布陣しているのを知り、新保村の農夫を使いに出して書状を送った。それには、自分たちの行動は京都にいる一橋慶喜に悲願を訴えるためのもので、諸藩の兵と戦う意志はみじんもなく、道路を通して頂きたい旨が書かれ、宛名は葉村重役衆となっていた。
 加賀藩の監軍永原甚七郎は、道を通させてやりたいが、慶喜の命令に従い、「是非なく、一戦におよぶべき存寄に御座候」という返事を武田に送った。


 武田らは、はじめて慶喜が追討の令を発し出陣していることを知り、嘆き悲しんだ。そして、永原に書を送り、慶喜に自分たちの真意を伝えて欲しいと懇願した。永原は、同情して自ら新保村に赴き、武田からの嘆願書と始末書を受け取り慶喜に送った。その間、幕府側は、永原にただちに浪士勢を一人残らず討ち取るように繰り返し命じたが、永原は、戦う意志のないという浪士勢を攻撃するのは武士としてできぬ、と拒み続けた。
 
しかし、永原は、それらの命令を無視することもできず、合戦準備をととのえると同時に、飢えに苦しむ浪士勢の陣に白米二百俵、漬物十樽、酒二石、スルメ千枚を送り届けた。そして、翌十二月十六日、使者を立て、明朝から総攻撃を開始すると告げた。その日の夕刻、藤田小四郎から、「軍議の末、降伏に決した」旨の申し出があった。
 二十二日、浪士勢から加賀藩勢に武器の引き渡しがおこなわれた。


 降伏した人員は八百二十三名で、中に五十六歳の女がまじっていた。それは市毛源七という若い武士の母みえで、源七の最後をみとどけるため水戸からついてきたのである。最後まではいなかったが、他にも三、四名の女性が随行していたことが知られている。
 武田は、降伏決定と同時に、新保村に迷惑をかけたことを詫び、村に二百両、本陣へ十両、庄屋に三十両などを贈った。

 十二月二十三日、三百四十六人の浪士勢が敦賀に送られ、本妙寺に収容された。また、翌日には猛吹雪の中を、武田光雲斎ら首脳者を含む三百八十七人が敦賀の本勝寺に、そして翌日、残りの浪士が長遠寺に移された。
 

 加賀藩は、浪士を温かく遇した。食事は士人に一汁三菜、軽率には一汁二菜、それ以外に酒、煙草、衣類等を豊富に与えた。また、正月元旦には加賀藩主の命令で餅、酒が供され、少年には饅頭が支給された。その間、各藩では朝廷に対し、浪士勢の助命を乞う動きが活発だった。
 

 しかし一橋慶喜は、幕府軍を指揮していた若年寄田沼玄蕃頭に、浪士勢の処置を一任した。浪士たちの身柄は、加賀藩から幕府側に移された。と同時に、幕府側は、彼らを岸沿いにならぶ土蔵に連行した。寺に収容されているうちに五名が病死して八百十八人になっていたが、それを十六戸の土蔵におしこめたのである。土蔵は蝦夷から船で運ばれてくる肥料用の鰊を入れておく倉で、悪臭に満ちていた。幕府側は、すべての窓に板を打ちつけた。
                            続く